、」と咄嗟に、出たらめに、
「まるで海みたいなものだ。」
「え、海……。」
「海が見たくなっちゃった。」
「じゃあ見にいらっしゃいよ。」
「そうだな、今から行って来ようか。だが……。」
「なあに……。」
「まだ暑いし、……。」
「だから、海は涼しくていいんじゃありませんか。」
「そうかしら……。一緒に行こうか。」
「わたし?」睨むような甘えた眼付だった。「行けないことが分ってるものだから……。」
「なぜだい。」
「坊やをどうするの。」
「ああ、子供か。」
「嫌な人ね、白ばっくれて……。行っていらっしゃいよ。」
「うむ……だが、赤ん坊の顔を見てるのもいいようだし……。」
「まあー……。」
赤ん坊は余り好かないと云って、抱きかかえることも少い彼だった。その平素の不満がちらと敏子の眼に閃めくのを、彼はすぐに取上げてみた。
「いや、僕は……赤ん坊の寝顔はひどく好きだよ。何だかこう、人間ばなれした清浄無垢って感じだからね。赤ん坊というものは、始終眠ってると実にいいんだけれど……。」
「それじゃあ、人形も同じじゃありませんか。」
「そうだ、生きた人形……そんなものが生れると素敵だがなあ。」
「また。……だからあなたは駄目よ。」
「へえー、駄目かなあ。」
「何を感心していらっしゃるの。……行っていらっしゃいよ。つまらないことばかり云って、また坊やが眼を覚すじゃありませんか。」
「三界に身を置くところなしか。……行ってくるかな。……どこだろう、一番近くて一番よく海が見えるところは……。」
品川か……大森か……羽田か……そんなことを独語しながら、彼はなおゆっくり構えこんで髯を剃り初めた。
――海なんかどうでもいいんだ。俺は……いや、そういう風なお前が可愛いいんだ。お前が可愛いいからこそ……。
そんな理屈はない筈だけれど、兎に角彼は、そういう場合の敏子が可愛いかったし、可愛いければ可愛いいほど快活な気分になって、華やかな巷の方へいそいそと出歩いてゆくことが、ぴったり胸におさまった。
「夕飯は……まあどっかで済しちまおう。……少し帰りは遅くなるかも知れないよ。」
「遅いのはいつものことじゃありませんか。」
何の疑念もなく微笑んでる敏子の眼付に、彼も微笑で応じた。
「あ、全くだ。夜遅く、もう電車もなくなった街路《まち》を、ぶらりぶらり歩いてくるのは、実にいい気持のものだよ。お前に
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