超越したところに、恋愛の存在理由がある。僕は色慾と食慾とを同一だと考えている。生理的必要からくる色慾以外に恋愛が存在するのは、生理的必要からくる食慾以外に調味法が存在すると同様だ。美意識や味覚は生存の必要条件ではない。それらは凡て慾望の上に生長する。病院で僕は、生命を維持するのに、幾グラムかの流動食で充分だったし、体力を回復するのに、僅かな粥と一汁一菜とで足りた。がその必要なだけの食物は、非常な苦痛だった。寝ながら、退院後のあらゆる美食を空想して、表にまで拵えたものだ。ただその空想を実現することは、経済状態が許さなかった。が慾望は消えなかった。鶏卵と牛肉鍋くらいが家庭での最上等の御馳走だった僕は、市内の種々の料理屋のことを、粗末な餉台に向いながら空想したものだ。そんな時僕の顔は、きっと陰鬱な影に蔽われたに違いない。僕の回復を喜んでくれてる母の顔も、やがて陰鬱になって、視線が重く下に垂れ、口も重くのろくなる。顔面の若さは主として眼付と言葉とにあるものだが、その二つが力を失ってくると、五十歳を越してる母はひどく老けてしまう。苦労を続けてる母が、気の毒になってくる。お母さん、こんど春日《かす
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