附のいい重い尻をずらして、呼鈴を鳴らして、ねえさん、熱いのを下さいなと、涼しい顔をしている。かと思うと、卓によりかかって、揶揄するように僕の顔を眺めながら、口移しに煙草の煙を吸わしてくれる。何一つ取留めたこともないのだ。ただ一つあるとすれば、こんど三越のホールで常盤津の会があって、自分も一寸出ることになっているから、是非来てくれと、切符を一枚僕にくれた。
 その会に行くべきか否かが、僕にとっては重大な問題だった。虫が知らしたとでもいうのだろう。当の日曜日の午過ぎまで躊躇したあとで、とうとう、一張羅のお召に草履という僕には不似合な姿で、一寸顔を出してみることにした。母がラジオの清元を楽しんでるのが、僕の決心の動機の一つだった。そういう逡巡のために、彼女……というよりここでは千代次と呼んだ方がいいが、その唄を聞きもらしてしまった。芸者衆ばかりの踊と素唄とを交えた常盤津の会で、千代次は始めの方の『松島』の唄の一人に出たのだった。それに間に合わなかったのを、僕は却って幸だと思った。後で批評を聞かれた時に困るのだ。常盤津のことなんか僕には更に分らない。全部の番組のうちで、元来能に興味を持ってる僕
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