――次の賞与まで――貸してくれと僕は頼んだ。実は友人に古い借金があって、それをこんど返さねばならない義理になった、なんかと。そして、指輪を質屋に持って行くようなことをしなくても、どうにか工面してあげようという母を、無理に口説き落してしまった。母はうすうす僕の身持のことを気付いでいるらしかったが、それについては何とも云わない。命拾いをした息子、それだけが胸一杯になっているのだろう。僕の顔をやさしく見守って云うのだ。
「ほんとにねえ、お前さんに不自由はさせたくないんだけど……。」
 その言葉だけで僕はもう沢山だ。不自由……と云えばやはり不自由には違いない。だが母だって、食べさせれば大黒屋の煮物をうまそうに食べた。涙を見せるのは恥だ。そのダイヤの指輪が質屋で百五十円になったのは、拾い物をしたようなものだった。それでも、僕の懐中は淋しい。懐手をして、百五十円の紙幣を押えて、街頭の一隅に佇んでいると、往き来の人々の顔が、どれもみな金銭を目指しているように見える。蜘蛛の巣のように四方八方に交錯している彼等の目的の方向は、みな金銭を終端に持ってるように思われる。金銭がなかったら、人々はこうも多忙では
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