一人の女に恋する……とまではいかなくとも、一人の女を愛する、ということは、よいことだ。僕のようなみじめな勤め人の生活では、それが一条の光と張りとを齎す。ただ、僕の場合は金がかかった。現金がなくてすむという便宜があるだけに、そしてそれが実は食慾よりも愛慾の方を僕に択ばした理由の一つではあるが、そのために却って無駄なことをしたり度々彼女に逢いに行ったりして、後で困ることになる。いくら待合だからといっても、時には多少の金を入れなければ義理がわるい。病中の費用なんかは、母が大事な貯蓄でどうにかごまかしてくれたらしいが、其他のことまで母におんぶするわけにはいかない。僕は友人から金を借りた。口実を設けて、社長から賞与の前借をした。僕一身に関する他の方面の支払を停止した。が、それでも足りない。彼女に贈るべき指輪が買えるどころか、また実際そんなものがどれほどするか知りもしなかったが、懐中はいつも淋しく、喜久本《きくもと》へはだいぶ払いがたまっていた。どうにかしなければならない、と考えるのだが、そのどうにかという必要が、いつも、一日一日と先へ送られてゆく。今日の日が暮れると、その勢で、必要が一日先に押
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