ほう、君も来ていたのか。これは愉快だ。はっはっはっ……。」
 眼を細くして、本当に愉快そうな笑い方だ。僕は一寸口が利けなかった。がそれよりもなお吃驚したことは、裾模様に丸帯をしめた見馴れない姿の千代次が、彼――依田賢造――の横合から、今日は、とだしぬけに挨拶した。その眼が複雑にちらちら光った。依田の眼はこんどは円くなって、僕達を見比べた。なんだ二人とも知ってるのか、これは更に愉快だ。そしてはっはっは……という笑いだ。千代次の顔はもう人形のように澄し返って、横を向いて煙草をふかしている。僕は額に汗をかいた。依田は一切無頓着だった。平素は注意深い彼だが、その日はよほどうっかりしてたに違いない、或は心驕ってたに違いない。愉快だ、と繰返すんだ。こういう保養があれば、君の病後も安心だ。誰と来てるんだ。連れがなければ、是非今晩つき合ってくれ。約束したんだ、いいか。そしてその約束を僕に押しつけてしまった。僕はよほどそのまま帰ってしまおうかと思った。がお義理に、依田のあとから場内にはいりかけると、千代次は僕の袖を引張って、依田を先に通し人波を距ててから、よく御存じなんですかと聞く。僕は卒直に答えてやった。僕の会社の社長で、毎日顔を見てるんだと。その僕の顔付と調子が、余りに真剣だか或は余りに頓馬だかだったろう、彼女は眼でびっくりしてみせて口元で笑った。そして、よく来て下すったわね、有難いわ、と云った。それが皮肉でも何でもないんだ。僕はぽかんとして、彼女の後について場内にはいった。彼女は僕の側を離れなかった。立ち通してしまった。踊が一段すむと、もうおしまいだ。立去るしおを失ってぐずついてるうちに、依田につかまって、自動車に乗ることになった。そうなると、多少の好奇心も湧くものだ。
 五時前なのに、冬の日はもう沈みかけていた。依田と僕と千代次と、待合の女将らしい六十年配の女との、四人だ。自動車のなかは寒くて薄ぼんやりしている。依田と女将だけに饒舌らしておいて、僕は執拗に黙っていた。着いたのは、同じ土地ではあるが、喜久本よりは大きな家の立派な室だ。室内はもう暖めてあった。それでも、酒だ、食事だ、ふく子か初枝か若いのを一人、洋服と褞袍の着換え、などと依田は忙しかった。そして席に落付いたかと思うと、また立ち上って洋服のポケットを探ってきた。これ、今日の出来栄えのお祝いだ。その、差出された小さな紙包を、千代次が開けてみると、赤い革の楊子入だ。いつも楊子を持ってたためしがないじゃないか、不用意な奴だな。そして依田ははっはっは……と笑っている。
 そうなると、僕もやけに腰を落付けてしまった。やって来たふく子は僕には初めてのおとなしい妓だったし、依田が得意に与太をとばしてるので、千代次もふく子もその方にもって行かれて、僕は黙って酒をのむことが出来た。スピードをはやめて飲んだ。その僕の飲みっぷりを見やって、依田はふと首を傾げる。何を考えてるのか、不気味な存在だ。短く刈りこんだ硬い頭髪、裸になったら所々に黒子や痣がありそうな肥った胴体、贅肉のあり余った頬、皮膚の厚ぼったい手先、穏かな自己満足の眼付……一見したところ好人物らしいが、その重量のなかに非常な貪慾が潜んでいる。もうだいぶ酔ってきて、血液の多量を示す赤味を帯びている。血液の多量は貪慾の証拠だ。その方から眼を外らして、僕は煙草と酒とに頼ろうとした。自分の存在が彼の存在に気圧されて仕方がない。僕としてはダイヤか真珠しか買ってやれない気がしている千代次に、彼は戯れにせよ楊子入なんか買ってやって平然と笑っている。酒の時には千代次、冗談の時には千代ぼう、甘い話には千代ちゃんと、言葉の使い分けをする。彼女に対して君としか云ったことのない僕には、それらの呼び方が妬ましく聞える。が彼女には平気らしい。ヨタさんという綽名で依田に受け応えしている。ヨタさんと云われる度に、彼は得意げに微笑する。その微笑が僕の心を刺す[#「刺す」は底本では「剌す」]。卓の上には寄せ鍋が煮立っているが、床の間の青銅の鉢には、霧藻のかかった松の枝が寒そうにくねっている。その霧藻や白い苔を見つめていると、山奥の冷たい空気が胸に伝わる。佗びしいのだ。それが自分のことだか千代次のことだか分らない。そして何度か立上ろうとしたが、腰が動かない。酔ってもいないようだ。どうした、気球ロボット先生、と依田が声をかける。彼は気球ロボットの由来を話しているのだ。今日の『釣り女』は面白かった、気球ロボット先生の天女釣りと一ついこうじゃないか、なんかと、千代次とふく子の手を執って立上りながら、踊りの真似ごとをやりだそうとする。三味線が足りない、も一人呼んでくれ……。彼も酔っているらしい。僕も、踊るぞと立上った拍子に、ぞっと寒気《さむけ》がして、そのまま階段を降りて行った。帰るつ
前へ 次へ
全9ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング