あるまい。彼等に適当な衣食住と性欲機関とを与えれば、誰も金銭などを見向くものはあるまい。少なくとも僕は見向かない。あの時でさえ、「不自由な」僕でさえ、百円の金を喜久本の帳場へ平気で投げ出した。少しも惜しい気はしなかった。単に幾枚かの紙片の位置を変えただけだ。惜しいのは、具体的な物だ。指輪だ、時計だ、衣類だ、酒だ、御馳走だ、彼女の肉体だ。
 彼女はいつも朗かな調子でやってくる。他に出ている時には、貰いをかけるとすぐにくる。別に嬉しそうな顔でもない。それかって取澄してるのでもない。そして饒舌で酒飲だ。が、その饒舌は、めちゃくちゃに下らない事柄の上を飛び廻るだけで、そして時々晴れ晴れと笑うだけで、結局のところ沈黙に等しい。唄もうたえず洒落の才能もない僕は、杯を弄びながら、いきおい黙りこみがちだ。わきから見たら、何が面白いのかと訝られるに違いない。然し傍目にそう見えるのが、惚れた男の常態だ。彼女の、斜視めいてうわずった左の眼付が、僕の眼を擽ぐる。舌が長すぎるような甘ったるい言葉附が、僕の耳を擽ぐる。白粉の下の蒼白い頬の皮膚が、僕の感傷をそそる。――あたしもう何もかも嫌んなっちゃった、といろんな苦労を訴えて、僕の肩にすがって涙ぐむ、そうした彼女を空想していた僕は、物足りなくて淋しい。彼女の手の細長い紅い爪をいじっていると、その指の根本のプラチナのなかに、小さなダイヤが涙の玉のように閃めく。母のダイヤは朝露のように光っていた。それをも持出してしまった。そして彼女には小さな真珠も買ってやれないでいる。淋しい。ばかに淋しい。彼女は僕に引寄せられるままに任せる。着物の裾が夕暮の影みたいな淡い紫を畳の上に流して、島田の鬢がうすく透いてみえる。僕の眼は小さなダイヤに刺戟[#「刺戟」は底本では「剌戟」]されて、いつのまにか涙ぐんでいる。ぬるく冷えた銚子の酒は涙の源泉となる。飲めば飲むほど涙が出る。今晩、これから二人でどこかへ行ってしまおう。そして明日一日遊ぶんだ。そして……明後日の早朝には、浅間の噴火口へ飛びこんでしまうんだ。お互に、つまらないじゃないか。出かけよう。今晩、これから出かけよう。約束だ……。小指を差出すと、彼女も小指を差出して元気よく打振る。が、晴れやかに笑っている。あたしいい気持に酔っちゃったのよ。もっと飲まして頂戴。そして僕の腕から、細そりした腺病質の上体をぬけ出して、肉附のいい重い尻をずらして、呼鈴を鳴らして、ねえさん、熱いのを下さいなと、涼しい顔をしている。かと思うと、卓によりかかって、揶揄するように僕の顔を眺めながら、口移しに煙草の煙を吸わしてくれる。何一つ取留めたこともないのだ。ただ一つあるとすれば、こんど三越のホールで常盤津の会があって、自分も一寸出ることになっているから、是非来てくれと、切符を一枚僕にくれた。
 その会に行くべきか否かが、僕にとっては重大な問題だった。虫が知らしたとでもいうのだろう。当の日曜日の午過ぎまで躊躇したあとで、とうとう、一張羅のお召に草履という僕には不似合な姿で、一寸顔を出してみることにした。母がラジオの清元を楽しんでるのが、僕の決心の動機の一つだった。そういう逡巡のために、彼女……というよりここでは千代次と呼んだ方がいいが、その唄を聞きもらしてしまった。芸者衆ばかりの踊と素唄とを交えた常盤津の会で、千代次は始めの方の『松島』の唄の一人に出たのだった。それに間に合わなかったのを、僕は却って幸だと思った。後で批評を聞かれた時に困るのだ。常盤津のことなんか僕には更に分らない。全部の番組のうちで、元来能に興味を持ってる僕は、『釣り女』の踊に少しばかり感興を覚えただけだ。然しそんなことは初めから予期していた。予想に反したのは、観客全体の黒っぽさだ。会の性質上、そこにはぱっと明るい色彩が展開されてることと思っていた。派手な色彩と香料との温室だ。ところが実際は、室の中は冷かだし、香料は淡く、色はくすんでいる。痩せた浅黒い顔がいくらもあるし、背広服の男が多数だし、女は大抵じみな着物に、黒の紋付なんかをひっかけている。そしてそんなところで見る芸者は、へんに栄養不良だ。僕は満員の場内の後ろの壁際につっ立っていたが、ともすると外の廊下に足が向いた。そこの寂しい長椅子にぽつねんと腰を下して、煙草でも吹かしている方が、気楽だ。やがて、番組の合間に、がやがやと人が出てきて賑かになる。暫くすると、それがみな扉に吸いこまれていってひっそりとなる。平磯の波の届く巖の上にいるようなものだ。ところが、そのがやがやとした波の時に、僕ははっとして飛び上った。
 僕の勤めている商事会社の社長が、にこにこした顔で前に立っているのだ。五十歳ほどの、働き盛りの男だ。黒の背広に縞のズボンをはいて、チョッキの胸に細い金鎖を一筋張り渡している。

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