っている。それらの文字の代りに、一人でいいから、天女のようなマネキンガールをくっつけたら……。そしてビラを撒かせるのだ。綺麗な五色のビラだ。銀杏の葉のようなビラだ。晩秋、空が蒼く冴え返って、冷かな寒風が街路に踊り狂ったことがある。大きな銀杏の並樹が聳えて、黄色い葉に蔽われている。その葉が突風にもぎとられて、無数に乱舞する。地面も空中も一面に、真黄色な渦巻だ。そして四五時間のうちに、銀杏の並樹は蒼空の下で半ば裸になってしまった。あんな風にするんだ。羽衣をつけたマネキンガールをあらゆる人が驚異の眼で見上げる。とその乙女の手から、銀杏の葉の形をした五色のビラが、無数に降ってくる。それを拾ってみない者は、馬鹿か偽君子だ。すばらしい広告的効果がある。街路樹が黄色い葉を撒き散らしてよいとすれば、天女が五色のビラを撒き散らしたとしても、警視庁で文句のつけようはあるまい。人体では気球に重すぎるとするなら、軽いロボットを考案すればよい。このロボットの考案者は、素敵な金が儲かる。そんなことを僕は考えていたのだ。それを邪魔した声の方を振向くと、張子のような顔が真正面にこちらを向いている。色素が余って血液が足りないような類の色だ。丹念に鋏で刈りこまれたらしい口髭が、鼻の下に逆立っている。一体髭にしろ髪にしろ、先端が細くしなやかでなければ毛としての優雅さは持ち得ないものだが、大抵の口髭は先端も根本も同じ太さで、ぶつりと断ち切られている。針金を植えたも同じだ。それを一種の装飾だと自惚れてるからおかしい。それと対照的に、眉根に二つの皺が縦に刻まれている。そして目には、底力のない鋭利な光が浮動している。奥行がなくて角膜にだけ浮いてるその鋭利な光の動き工合に応じて、眉根の皺が深くなったり浅くなったりする。これは生活の表徴とも云うべきものだ。社債の売買応募、金融の仲介、そんなことを主としてるこの商事会社では、微妙な而も単なる数字的な駈引折衝が社員の重な仕事だった。誰かが――例えば僕が――病気で長く休んだとて、社の業務には大した支障を来さない。いつも隙だ。がいつも神経的に忙しい。こんな生活を長くやってると、神経だけが尖鋭になり、情感が遅鈍になり、血液の循環が不平衡になる。眉根の縦皺と角膜に浮動してる光とがその徴候だし僕は同僚のそれを見てると、何だか胸が重くなってきた。そこで、スチームの暖気でむうっとしてる密閉した屋内に、爽かな冷い外気を吹入れるような調子で、マネキンガール――或はロボット――のことを話してやったものだ。が彼は、それから周囲の彼等は、何の感与も起さないらしい。彼等は僕のことを、非実用的なことばかり考えてる夢想家だと見做しているが、その夢想家の馬鹿げた空想の一つとして聞き流してしまった。然しそれは、彼等が気球広告をよく眺めていない証拠になるばかりだ。誰にでもいつかは気球広告をじっと眺める時がくる。彼等にも後でその時が来たに違いない。僕のことを気球ロボット先生と綽名するようになった。
気球ロボット先生というのは、僕としてそう嫌な綽名ではない。病後の自由と淋しさ。大都会のなかの孤独。気球もきっと同じ気持を感じてるに違いない。そして彼が常に寒い風に曝されてるように、僕の懐中も窮乏の寒さに曝されている。そのなかで、彼女に対する甘ったるい空想に耽るのだ。そんな時の金ほどつまらないものはない。僕は母をごまかして得たうちの百円を、喜久本の帳場に瓦礫のように惜しげもなく投げ出せたものだ。母は幾つかの指輪を持っていた。そのうちに、年老いてからは殆んど使わないダイヤが一つあった。それを暫く――次の賞与まで――貸してくれと僕は頼んだ。実は友人に古い借金があって、それをこんど返さねばならない義理になった、なんかと。そして、指輪を質屋に持って行くようなことをしなくても、どうにか工面してあげようという母を、無理に口説き落してしまった。母はうすうす僕の身持のことを気付いでいるらしかったが、それについては何とも云わない。命拾いをした息子、それだけが胸一杯になっているのだろう。僕の顔をやさしく見守って云うのだ。
「ほんとにねえ、お前さんに不自由はさせたくないんだけど……。」
その言葉だけで僕はもう沢山だ。不自由……と云えばやはり不自由には違いない。だが母だって、食べさせれば大黒屋の煮物をうまそうに食べた。涙を見せるのは恥だ。そのダイヤの指輪が質屋で百五十円になったのは、拾い物をしたようなものだった。それでも、僕の懐中は淋しい。懐手をして、百五十円の紙幣を押えて、街頭の一隅に佇んでいると、往き来の人々の顔が、どれもみな金銭を目指しているように見える。蜘蛛の巣のように四方八方に交錯している彼等の目的の方向は、みな金銭を終端に持ってるように思われる。金銭がなかったら、人々はこうも多忙では
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