毒をでもあおるように酒を飲む彼女の酔態かも知れない。なぜなら、真面目な時の彼女には僕は少しも心惹かれなかった。病気前から知り合いなので、どこから聞いたか彼女は、二三度病院に見舞って来たことがある。束髪に大島や或はじみなお召などを着て、小さな果物の籠や草花の鉢をさげてきた。いかがとか、いけないわねとか、お大事にとか、そんな通り一遍の挨拶より外に、何にも云うことがなかった。白粉のうすい顔の皮膚に妙に水気が乏しい。硝子窓の外の植込に雀が鳴いてるのを、珍らしそうに眺めている。ベッドからその姿を見ると、実際よりも背の低い小ちゃな冷い感じだ。そして十分かそこいらで彼女が帰っていくと、僕は何かしらほっとした気持になる。がその後でまた、しきりに彼女のことを考えてる自分自身を見出したものだ。僕の病気平癒を祈って酒を断ち、所在なげにお座敷をつとめてる彼女の姿までが、幻のように浮んでくる。
退院後、僕は出来るだけ早く彼女に逢いに行った。彼女は一寸びっくりしたらしく、それからしみじみと僕の顔を眺めた。
「でも、よくなおったものね。二度も危かったそうじゃありませんか。」
それが、喜びや嬉しさではなく、ただ不思議だという調子だ。退院してから、そんな挨拶に接したのは初めてだ。母は涙を流して喜んでくれた。友人や同僚たちは祝ってくれた。が全快したのを不思議がって僕の顔を眺めるのは、彼女一人きりだ。而もそれが如何にも純真で朗かだ。こいつめ、とぶん殴ってやりたいほど、僕は胸がすっきりした。そしてその時から、ほんとに強く心を囚えられてしまった。床の間の軸につがいの鴛鴦が泳いでいるのは俗だが、その下の方に、梅擬《うめもどき》かなにかの赤い実のなった小枝の根〆に、水仙の花が薄黄色に咲いている。その花が僕にはとても可愛く思えた。その方をじっと見てると、彼女はただ退屈ざましに云う。「まだお酒はいけないでしょう。」水仙の花を相手なら、酒は飲まない方がいいが、彼女となら飲んでやれという気になる。「なに構うものか。いけなかったら、君が僕の分も飲んじまえばいい。」とそんなことから、二人とも酔うようになる。だが、僕たちの関係は淡いものだった。彼女はなんのかのといって、なかなか床《とこ》をつけさせなかった。其後もほんの数えるほどしかない。絶対に浮気しない身分でもない彼女のそうした態度が、なお僕の心を惹く所以でもあった。
一人の女に恋する……とまではいかなくとも、一人の女を愛する、ということは、よいことだ。僕のようなみじめな勤め人の生活では、それが一条の光と張りとを齎す。ただ、僕の場合は金がかかった。現金がなくてすむという便宜があるだけに、そしてそれが実は食慾よりも愛慾の方を僕に択ばした理由の一つではあるが、そのために却って無駄なことをしたり度々彼女に逢いに行ったりして、後で困ることになる。いくら待合だからといっても、時には多少の金を入れなければ義理がわるい。病中の費用なんかは、母が大事な貯蓄でどうにかごまかしてくれたらしいが、其他のことまで母におんぶするわけにはいかない。僕は友人から金を借りた。口実を設けて、社長から賞与の前借をした。僕一身に関する他の方面の支払を停止した。が、それでも足りない。彼女に贈るべき指輪が買えるどころか、また実際そんなものがどれほどするか知りもしなかったが、懐中はいつも淋しく、喜久本《きくもと》へはだいぶ払いがたまっていた。どうにかしなければならない、と考えるのだが、そのどうにかという必要が、いつも、一日一日と先へ送られてゆく。今日の日が暮れると、その勢で、必要が一日先に押し出される。毎日毎日を通じて、必要という棒をむりやりに押し進めてるようなものだ。而もその棒は益々太く重くなるばかりだ。それと睥めっこをして、煙草をふかしながら、もしここに千円もあったらと空想する。僕の身分ではそれは大した金額だが、数字の上では一寸したものだ。会社の帳簿などの上では、マル一つで数万数十万が左右される。一桁の数にマルをつけると、百以下の差だし、二桁の数にマルをつけると、千以下の差だが、五桁の数にマルをつけると、十万乃至百万の差になる。同じマルにも、場合によってこんな価値の差があるのは不思議だ。マルを一つ取りこんでやれ。マルは零《ゼロ》ではないか。僕に零を一つくれと云ったら、人はどんな顔をするだろう。
「君の様子は少し変だ。まだ病気がすっかりなおってないんじゃないのか。」
そんなことを社の同僚が云う。或は少し変かも知れない。僕は一人の女を愛しているのだ。それに、大病の後転地保養もしないで出勤しているのだ。それにまた……これは愉快な思附だった。室の窓から、多くのビルディングの間をぬけて向うに、大きな気球広告が風になびいていた。気球の下には、不細工な文字が並んで馬鹿げた媚態を作
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