もりではなかったらしいが、足がひとりでに玄関に向いてしまった。女中にひきとめられるのを振払った。どうしたことか、玄関の出口で、ひょっこり千代次の姿が立現われた。僕は歯をくいしばっていたようだ。彼女は僕の耳に囁いた。
「いろいろ世話になってるものだから……。ご免なさい。あたし好きじゃないのよ。それに、ふく子さんの……。」
 その謎のような言葉だけが耳にのこった。それをかみしめるうちに、どう歩いたか喜久本の前につっ立ってる自分を見出した。それに気がついて我に返った。そして煮え返るような胸を抱いて、しっかり足をふみしめて、歩き去った。依田を殴り倒してる幻想が浮んでくる……。もう千代次が惜しいのではない。黄金の権力が呪わしいのだ。慾望は構わない。他人の慾望を蹂躙する貪慾が敵なんだ。僕を個人主義者だと笑ってはいけない。

 中江は多少興奮していた。村尾は口を噤んでから、妙に萎れていた。
「よし、出かけよう。」
 中江は元気よく立上ると、村尾もそれにつれて機械的に立上った。そして二人は、狭い裏通りを並んで歩いていった。どちらも可なり酔っていた。薄い絹の襟巻をして眼鏡を光らしている中江に比ぶれば、帽子の線を引下げてマントの襟に※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]を埋めてる村尾の方が、痩せた弱々しい身体付のせいもあって老けて見える。そして中江のしっかりした足取が、ふらついてる村尾の足取りを導いてるようだ。
 暫くすると、彼等は喜久本の一室に落付いていた。
「千代次さん、じきに参ります。」
 銚子を運んできた銀杏返の大柄の女中が、そう云いながら杯をすすめた。村尾が眼を挙げたあとを、中江が引取った。
「おやおや……。まだ誰とも云わない先にか。大した色客だな。」
「だってねえ……。それから、誰にしましょう、お馴染は?」
「うん一人でいいんだ。」
 村尾は元気なく黙っていた。考えこんでいた。頭の中に夢を一杯つめこんでるような顔付だ。中江が一人で女中相手に冗談口を利いた。二本目の銚子の時に、急いだ足音が廊下に聞えた。千代次だ。障子をあけて、村尾に視線を落すと、安心したようにつかつかとはいってきて、こんばんわと、中江の方に丁寧に挨拶をした。
「随分ねえ、村尾さん。あれっきり……。また身体でもお悪かったの。」
 村尾はぎごちなく頬の肉をひきつらしてる。笑ってるのだ。そうした二人の様子を、中江は不思議そうに眺めた。
「なあに、病気なんかするものか。尻が重かっただけさ。それを、どうだい、僕がむりやりに引張ってきたんだ。」
「あらそう。有難いわね。」
「まだ早い。実は、そのくせ、来たくてたまらなかったんだからね。まあ一ついこう。」
 千代次はなみなみとうけて、一息に干した。それを中江に返してから、ひょいと考えこんだ。斜視めいた眼が宙に据って、頬の血色の乏しさと相まって、一寸人の気を惹く。頽廃の一歩前の美しさだ。鬢の毛が目につかないほどに震えている。そのくせ、細そりした上半身は静まり返って、どこで息をしてるのか疑われる。じっと村尾の様子に目をつけてその眼を中江の方にずらしてきた。
「どうしたの……何だか変だわね。」
「そりゃあ、少しはね……。」云いさして中江は、じろりと村尾の方を挑戦的に見やった。「ヨタさんとは違うさ。」
 それが、湖面に石を投げたようなもので、村尾の頬に微笑が描かれた。彼は何か他のことを考えてたらしい。それから引戻されて、微笑と共に千代次の顔をぼんやり眺めた。千代次は晴れやかに笑ってその視線を受けとめた。
「あら、つまんないことを饒舌ったのね。」
「つまんなかないよ。」と中江はいやにしつこかった。「ヨタさんと大いに違うってことさ。」
「どこがちがって?」
「全く違う。」
「何がちがうのよ。」
「男が違うんだ。」
「まあ変なことを仰言るわね。……お杯頂戴。」
 千代次は立て続けにひっかけた。そして杯を中江の方にさしつけた。
「さあ、どこがちがうのよ。」
「どこもここも、世の中がみんな間違ってるんだ。」
 中江はもう何のことか分らなくなってたらしい。単に両手をついて、とろんとした眼で千代次を見ていた。その態度が、千代次の気に障ったらしかった。頬が一層蒼ざめてきた。しきりに酒を飲んだ。
「そんなことを仰言るなら、あたしにだって云い分はあるわよ。ひとを馬鹿にしてるわ。ヨタさんが何なの。お客だから、大事にしているだけよ。どんな人だって、お客なら、大事にするのが商売よ。」
「浮気もね。」
「そうでしょうとも、どこかの、女給さんたちなら……。あたしは、そんな好き嫌いなんか、ちっとも持ってやしないんだから。男なんて、みんな同じじゃないの、浮気なんか、ばかばかしくって……。」
「なんだって……情人《いろ》とか恋人《こい》とかのことを云ってるんじゃないよ。」

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