はそれが少しも見えなかった。塀が高くて、その婦人の背が低かったのだ。」
そして結局、其日脱走しなかったのは幸運となり、其後、ヴァイオリンの音にかえて、コントスキーの昂奮的な舞踏曲を相図に、彼は脱走し了せたのである。この恐ろしい脱走計画に、赤い玩具の風船は愉快な思いつきである。アナーキズムの主導者となったクロポトキンにふさわしい話だ。それはボルシェヴィズム的ではなく、どこまでもアナーキズム的だ。ボルシェヴィズムは陰鬱だが、アナーキズムは朗かである。
頭の禿は、玩具の風船と同じくらいの愛嬌的なものだが、場合によってはひどく不愛嬌になる。或る洒落男が、齢四十歳やそこいらで、頭の真中に銅貨大の禿が出来た。頭髪で隠しても、変にすいて目立つ。いろいろ苦心したあげく、毎日キルク炭を塗るのも厄介なところから、思いきって禿のところに墨で刺青をした。それで当分は安心だったが、やがて、禿が次第に大きくなっていった。刺青はもとの大きさだ。遂には大きな禿の真中に、銅貨大の黒い刺青だけが残った。――話もこうなると、愉快を通りこして悲惨だ。寧ろ禿げざるに如かず。然し禿は世に存在する。
禿と同様に病気も存在する
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