芸術的作品を分つ感じ、謂う所の芸術味、それはみな、作品が宿してる作者の心境から来る。
心境とは心の――魂の――境地である以上、さまざまの種類がある。或は歌い、或は叫び、或は黙し、或は穿鑿し、或は静観する。然しそれには常に生きた血が通っている。思想は頭の働きであり、感情は心の働きであるけれども、心境はそれらのもの一切を含めた生きた世界である。
芸術上の作品は、人のどの部分かの働きによって出来るものではない。作者の魂が住んでる生きた世界から醸されるものである。
或る心境に腰を据えて書かれたのでない作品は、単に表現の技巧と材料に対する興味興奮とだけで出来上っている。
表現の技巧は作品に生命を与うるものではない。材料に対する興味や興奮もそうである。
そういうものばかりで出来上ってる作品は、外見は如何に巧みであり力強くあろうとも、実質は無味乾燥で上滑りがしていて、生命の気が籠っていない。
レアリスムの作品を生み出すのはレアリスムの心境であり、ロマンチスムの作品を生み出すのはロマンチスムの心境である。ヴェルレーヌの作品を生み出すのはヴェルレーヌの心境であり、ドストエフスキーの作品を生み出すのはドストエフスキーの心境である。この場合、表現の形式や作意の方向などは、第二義的のものである。
心境を顧みない芸術家は、第二義第三義的なものに堕していって、真の芸術の途から外れてゆく。
先ず心境を練ることをしないで、ただ先へとばかり進みたがるのは、多くの未成大家の弊である。そういう途を辿る時には、進めば進むほど益々芸術から遠ざかる。
自然主義のよい作品が生れたのは、自然主義的心境が渾然としてきたからであった。言葉は当っているかどうか知らないが、表現派の良い作品が生れたのは、表現派的心境が渾然としてきたからであった。プロレタリア派のよい作品が生れるには、プロレタリア派的心境が渾然としてこなければいけない。心境を離れた技巧は、単なる作文的技巧である。心境を離れた主張は、単なる論理的主張である。心境を離れた見方や考え方は、単なる批評的見方や考え方である。芸術的な技巧や主張や見方や考え方は、そんなものではない。心が――魂が――そこにしっくり落込んでいなければいけない。そういう心境になっていなければいけない。
頭を或る方面へ向けるのは容易い。魂を或る方面へ据えつけるのは難い。而も芸
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