術家にとっては、魂の据っているか否かが第一の問題である。
斯くして、既成大家が一の心境に固着して先へ進もうとせず、未成大家が先へ進もうとばかりして心境の開拓を顧みない結果、文壇は行きづまったという嘆声が生じた――それは地震前のことである。
地震の衝撃を受けて以来、文壇には新らしい光が射すだろうとか、少くとも何等かの変化が起るだろうとか、そう云ったことを説く者が可なりあったし、説かないまでも胸に思ってる者が多かった。然し私の考える所に依れば、そんなことは無さそうな気がする。外的の第二義第三義的変化は多少あろうとも、新らしい材料とか新たな主張とかは多少現われようとも、本質的な変化は聊かも見られないだろう。
試みに正月に表われる作品を見れば分るだろう。見てから後でなければ断言出来ないけれども、恐らくは、地震前と大差ないに違いない。少くともそれらの作品の奥に映ってる作者の姿は、何等新たな心境を示してはいないだろう。
文壇に或る動きを起すには、文壇の内部に或る刺戟を与えなければいけない。外部からの刺戟は忽ちにして通り過ぎる。
地震の結果が如何に悲惨なものであったにせよ、文壇全体にとっては、それは一時的の外部的のものであった。文壇はまたすぐに以前の状態に立戻っている。
日本の政治界が地震前と同じ道筋を辿って、帝都復興を帝都復旧に萎縮させてしまったことは、別に驚くにも当らない。政治界の内部に、全体を動かすだけの刺戟がなかったからである。野に声がなかったからである。
地震後の文壇を動かすには、否地震後と何時とを問わず、所謂行きづまった文壇を動かすには、文壇の内部にそれだけの刺戟がなければいけない。文壇の内部に、野に叫ぶ声がなければいけない。
野に声なき結果、文壇は萎靡しがちである。
野に声なし――野は朝野の野であり、声は野に呼ばわる予言者の声のそれである。
固より、野に声なしというのは比喩である。天国は近づけり悔い改めよと、ユダヤの野に叫ぶ予言者の声に籠ってる気魄、そういう気魄がないというのである。
この野に呼ばわる声こそ、人の肺腑まで泌み通る。既成大家を奮起せしめて、一の固定心境に晏如たらしめず、更にその進展に志ざさせるものは、この声である。未成大家を沈思せしめて、その皮相な興奮を打挫き、新たな心境に眼覚めさせるものは、この声である。
この声は何処から出て
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