なったり、前後入り乱れたり、間を飛び越して先へ進んだりして、可なり乱雑なものだったが、その大要は次の通りである。

     四――宮原俊彦の話

 今から二年半ばかり前のことでした。団扇《うちわ》を使ってたから、たしか夏の……初めだったと思います。その暑い午後に、婦人雑誌記者の肩書を刷り込んだ小さな名刺を、女中が僕の書斎へ持って来ました。僕はその橋本沢子という行書《ぎょうしょ》の字体をぼんやり眺めながら、客を通さしました。そして派手な服装《みなり》をした若い女――何故かその時僕は、記者にしては余りに若すぎると感じたのです、そんな理屈はないんですがね――その若い記者が、遠慮なく座布団の上に坐ってお辞儀をした時、僕も一寸会釈をしながら、「初めて……」と挨拶したものです。すると、彼女は頓狂な顔をして、僕をじっと見てるじゃありませんか。僕は変な気がして、「何です?」という気味合いを見せたのです。
「だって、私先生にはもう二三度お目にかかったことがありますもの。」
 そう云った彼女の顔を僕は見守りながら、その広い額と下細《しもぼそ》りの顔の輪廓と尻下りの眉の形とで、前に逢ったことを思い出したのです。それは間接の友人の中西の所でした。その頃僕の友人達の間に、花骨牌《はながるた》が可なり流行っていて、僕も時々仲間に引張り込まれたものです。それが大抵中西の家で行われた――というのは、中西の細君が、新らしい婦人運動やなんかに関係していて、まあハイカラな現代の新婦人で、男の連中と遊ぶのが好きだった――と云っちゃ変ですが、兎に角社交的な開けた性質なんですね。それで、友人と二人くらいで、外で晩飯を食って、詰らなくなって退屈でもしてくると、自然中西の家へ僕まで引張ってゆかれて、主人夫妻と一緒に花をやるといった工合です。僕もそういう風にして、何度か中西の家へ行ったものです。すると或る時、中西の細君が、「人数がも少し多い方が面白い、」と云って、階下《した》から女学生らしい女を呼んできました、それが沢子だったんです。勿論僕はその時、彼女に紹介されもしなければ、彼女の名前を覚えもしなかったですが――と云って、「今度は沢子さんの番よ、」などと云う言葉を耳にしたには違いないんですが、それが頭にも残らないほど、彼女の態度は……存在は、控え目で、そして遊びにも興なさそうだったのです。そんなことで二三度彼女に逢ったわけですが、そのうちに僕は自然忙しくもなるし、花にも興味を持たなくなるし、元々中西とは、花骨牌の席ででもなければ、殆んど逢うこともないくらいの間柄だったものですから、いつしか連中から遠退いて、従って、沢子に逢うことも無くなったし、彼女の存在をも忘れてしまったのです。
 所が、それから半年か……そうですね、一年とたたないうちに、彼女は雑誌記者として、ふいに僕の前に現われたのです。
「そうそう、中西さんの所でお目にかかりましたね。だが、雑誌記者たあ随分変ったものですね。」
 というような挨拶をして、それとなく、彼女の身の上を知ってみたいという好奇心が、僕のうちに萌しました。けれども彼女は当り障りのないことをてきぱきした言葉で述べながら――そのくせ、自分自身に関することについては妙に曖昧に言葉尻を濁しながら、僕の言葉をあらぬ方へ外らしてしまうんです。非常に明敏な頭を持ちながら、自分自身のことについてはまるで渾沌としてる……といった印象を僕は受けました。
 それから、来訪の用件に移ると、実は雑誌社にはいったばかりでまるで見当がつかないが、最初の原稿として何か面白いものを取って皆をあっと云わしてみたいから、神話に関する先生の原稿を是非頂きたい、と云うのです。僕が神話の研究者であることを、何処かで聞いていたとみえます。僕は承知するつもりで期日を聞きますと、一週間以内に是非と云うじゃありませんか。而もその一週間は、僕は学校の方の答案調べやなんかでとても隙がありません。
「それじゃお話して下さいませんかしら。私書きますから。」
 いつ? と尋ねると、只今、と云うんです。
 僕は苦笑しながら、兎に角話を初めました。フーシェンが山へ行って、恐ろしい姿のものを見て、石を掴んで投げつけると、その石が岩に当って火花を発し、その火が広い野原中に拡った、それがペルシャの拝火教のそもそもの火であるというようなことや、印度の火神アグニーは、枯木の材中に生命を得て来て、生れ出るや否や、自分の親である木材を食い尽そうとする、などというような、神話の起原と自然現象との分り易い関係の話を、少しばかりしてやりました。彼女は談話筆記は初めてだと云いながら、わりにすらすらと書き取っていましたが、一寸つかえると、僕が先へ話し進めるのをそのままにして、一言の断りもしないで、じっと僕の顔を見てるじゃありませんか。まるで女学校の生徒が先生の講義を筆記してるといった恰好です。僕は苦笑しながら、その引っかかってる所からまた話し直してやる外はなかったのです。
 用が済むと、彼女はさっさと帰って行きました。その後で僕は、彼女が団扇を手にしようともしなかったことと、暑いのに着物の襟をきちんと合してたことと、而も額には汗を少しにじましてたこととを、何故ともなく思い出したものです。
 僕がどうしてその日のことをこんなに詳しく覚えてるかは、自分でも不思議なくらいです。彼女が帰った後で、僕は非常に晴々とした気持になって、初めからのことを一々思い浮べてみた、そのせいかも知れません。
 が、こんなに細かく話してては、いつまでたっても話が終りそうにありませんから、これから大急ぎでやっつけましょう。その上、其後のことは僕の記憶の中でも、頗るぼんやりしていてこんぐらかっているんです。
 沢子が僕の談話を取っていってから、可なりたって、その雑誌社から雑誌を送ってきました。読んでみると、僕の話した事柄が、可なり要領よくそして伸びやかな筆致で書いてありました。これなら上乗だと僕は思いました。すると、丁度その翌日です。沢子が雑誌と原稿料とを持って飛び込んで来たものです。
「先生のお蔭で、私すっかり名誉を回復しましたわ。」
 何が名誉回復だか僕には分りませんでしたが、彼女の喜んでるのが僕にも嬉しい気がしました。雑誌は社から既に一部送って来てると云うと、でもこれは私から差上げるのだと云って、置いてゆきました。原稿料はあなたが書いたんだからあなたのものだと云うと、そんな機械的な仕事の報酬は社から貰ってると云って、それも置いてゆきました。
「私これからちょいちょい先生の所へ参りますわ。どんなお忙しいことがあっても、屹度引受けて下さいますわね。そうでないと、私ほんとに困るんですの。」
 そんな一人合点のことを云って、彼女は帰ってゆきました。それが却って僕の心に甘えたことを、僕は否み得ません。
 それから彼女は、殆んど毎月僕の所へやって来て、僕の談話を筆記してゆき、次に自分自身で雑誌と原稿料とを届けてきました。各国の神話の面白そうな部分々々の話は、婦人雑誌には可なり受けたものと見えます。彼女はいつも喜んでいました。それに彼女自身、国の女学校に居る時ギリシャ神話を大変愛読したとかで、僕の話に頗る興味を持ってくれました。長く話し込んでゆくことさえありました。そして僕の方では、月々同じものが二冊ずつたまってゆく雑誌を、嬉しい気持で眺めたものです。
 そういう風にして、僕達の間には、記者と執筆者という普通の関係以外に、友達……と云っちゃちと当りませんが、そう云った親しい馴々しい打解けた気分が、次第に深くなってきたのです。そして僕は彼女の時折の断片的な言葉をよせ集めて、彼女の身の上をほぼ知りました。
 彼女の家は、富山でも――越中の富山です――相当の家柄だったのが、次第に衰微して、彼女が女学校を卒業する頃には、可なり悲境に陥ったらしいのです。そして、或る伯父の策略から、彼女は金銭結婚の犠牲にされそうな破目になって、母親の黙許を得た上で、東京へ逃げ出してきたのです。勿論その間の事情は、僕にはよく分りません。が兎に角、彼女は東京に逃げ出してきて、前からいくらか名前を聞きかじってる――というのは、彼女はまあ云わば文学少女の一人だったのです――名前を聞きかじってる中西夫人の許へ、身を寄せたわけです。その頃僕は彼女と二三度花骨牌の仲間になったのです。そして中西の家でどういうことがあったか、或は恐らく何事もなかったのかも知れませんが、彼女は其処に居るのが嫌になって、と云った所で、国から仕送りを受けて勉強するという訳にもゆかず、女中奉公も気が利かず、仕方なしに、何とか伝手《つて》を求めて、雑誌社にはいったような始末です。けれど、中西の家だって雑誌社だって、結局は彼女に適した場所ではありません。彼女はどんな所に置いても大丈夫であると共に――どんなことをしても純な心を失う恐れがないと共に、また同じ程度に、どんな所にもあてはまらない――安住し得ない性質を持っています。空中にでも放り出しとくがいいような女です。君はそうは思いませんか。
 所で……どこまで話しましたかね。……そう、僕と沢子と可なり打解けた間柄になった。すると半年もたってからでしたか……そうです、年が改ってからです。松のうちに一度やって来て、殆んど一日遊んでいってから――後で僕は思い出したんですが、その半日以上もの間、彼女は殆んど僕の書斎で神話の書物をいじくってるきりで、子供や妻を相手にしようともしなかったのです、勿論彼女は僕の家庭に親しんではいなかったのですが――それから後は、やって来ることが急に少くなりました。その代りに、度々手紙をくれるようになりました。後になってから僕は、その一日のうちに、僕と彼女との間に、どういう話が交わされたか、またどういうことが起ったか、いろいろ考えてみましたが、よく思い出しません。ただ彼女が、ペルセウスとアンドロメダ[#「ペルセウスとアンドロメダ」に傍点]というライトンの絵の写真版を、いつまでもじっと眺めていたことが、変に頭に残っています。そんなつまらない絵を何で眺めてるのかと、不思議に思ったからでしょう。
 彼女の手紙にはいろんなことが書いてありました。忙しくてお伺い出来ないのが悲しい、といつも前置をしてから、次に、日常生活の些細なこと――誰の所へ行ってどういう目に逢った、社でどんな話が出た、宿のお上さんがこれこれの親切をつくしてくれた、雪が降って故郷のことを思い出す、泥濘《ぬかるみ》の中に何々を取落して困った、今日はこういう悲しい気持や嬉しい気持になってる……などと、まるで一日の労働を終えて晩飯の時に、兄弟にでも話しかけるような調子のものでした。そして僕は、彼女がそんな事柄を書きながら、或る一種の慰安を得てることを、はっきり感じました。で僕からも自分の日常生活の断片を書き送りました。それがやはり、僕にとっても一種の慰安でした。時によると、精神上の事柄を書き合って、互に力づけ合うようなことさえありました。そして僕は、二人が東京市内に住んでいて何時でも逢える身なのに、屡々手紙を往復してるという不自然な状態には、少しも自ら気付かなかったのです。ただ、彼女と逢ってみると――もう彼女は原稿なんかも手紙で頼んできて、滅多にやって来なかったですが、それでも二月に一度くらいはやって来ました――そして逢ってみると、手紙のことはお互に口に出せないのを、はっきり感じました。何でもないことを書き合ってたつもりでも、或は何でもない些細な事柄ばかり書き合ってたためか、それが二人の心を恋に結びつけてしまって、面と向っては何だか気恥かしい心地がしたものです。馬鹿げてると云えばそれまでですが、実は、其処から凡てのことが起ってきたのです。
 梅雨の頃……六月の初め、僕の妻は肺炎にかかりました。病院にはいるのを嫌がるものですから、家に臥《ね》かして看護婦をつけました。そして僕も出来るだけ看護したつもりです。その僕の看護については、妻は何とも云わなかったですが、子供達に対して――二つと五つの女の児です――それに対し
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