た今日は、ちっともお酒をあがらないのね。」
「なに、やるよ。」
「君は沢山いけるんですか。」と俊彦が尋ねた。
「それほどでもありません。」
「うそよ。私度々あなたの酔ってる所を見たわ。」
「酒に弱いから酔うんだよ。……そしてあなたは。」
「僕は泥坊の方で、いくら飲んでも酔わないんです。その代り、時によると非常に善良になってすぐ酔っ払うんです。」
「先生は酔うと眠っておしまいなさるんでしょう。」
「沢ちゃんを一度酔っ払わしてみたいもんだな。」
「そう。」と俊彦が愉快そうに叫んだ。「そいつは面白いですね。」
「大丈夫ですよ。私も泥坊になるから。」
 そんな他愛もない話が順々に続いていった。一瞬前の緊張した気持は、いつしか何処かへ飛び去ってしまっていた。年来の友であるような親しみが、落着いたやさしい親しみが、三人を包んでいた。昌作はふと、自分がどうしてこう俄に安易な気分になったか、自ら怪しんでみた。そして、そのことがまた彼の心に甘えてきた。
 けれど、そういう会話は長く続かなかった。派手なネクタイに金剛石《ダイヤ》入りのピンを光らしてる会社員風の男が一人、音もなく階段[#「階段」は底本では「躊段」]から現われてきて、煖炉の方をじろじろ眺めながら、暫く躊躇した後、向うの隅の卓子に腰を下して、しきりにこちらを窺い初めた。それを一番に不快がりだしたのは、俊彦らしかった。彼は次第に言葉少なになり、はては上半身を煖炉の方へねじ向けてしまった。洋服の男は、出て行った春子と懇意な者らしく、暫く冗談口を利いていた。その声が馬鹿に低くて、昌作の方へは聞き取れなかった。それから男は、一人で珈琲をなめながら、また執拗に昌作達の方を窺い初めた。今度は昌作までが不快を覚えた。男の方に背を向けてる沢子一人がぽつりぽつり口を利いていたけれど、やがて彼女も黙り込んでしまった。それからすぐに、役女が最も不機嫌になってきたらしかった。卓子の上に両肱を置いて、石のように固くなって動かなかった。
 やがて俊彦はふいに向き返った。
「少し外を歩きませんか。」
「そうですね……。」
 昌作は語尾を濁しておいて、何気なく沢子の顔に眼をやった。沢子は一寸眉根を動かしたきりで、やはりじっとしていた。その間に俊彦はもう立上っていた。そして彼が勘定を求めると、沢子は突然大きな声で――向うの男にも聞えるような声で――云った。
「今日のは宜しいんですわ。」
 彼女は唇の端を糸切歯の先でかみしめてきっとなった。そして、俊彦はつっ立ち昌作と沢子とは坐ったままで、一瞬間待った。昌作は何とかこの場を繕ろわねばならない気がした。
「沢ちゃん一人残して可哀そうね。」と彼は囁くように云った。
 沢子は眼を挙げて、昌作と俊彦とを同時に見た。その顔が今にも泣き出しそうなのを、昌作は深く頭に刻み込まれた。
「何れまた三人で話をしましょう。」
 俊彦はそう云い捨てて、帽子掛の方へ歩き出した。昌作も引きずられるように後へ続いた。階段の上から沢子が見送っていた。
 外に出ると俊彦は突然云った。
「僕はあの男に見覚えがあるんです。いつか、四五人一緒にやってきて、隣の卓子で、僕にあてこすりを云ったので……。」
 昌作には、俊彦がそれほど憤慨してるのを怪しむ余裕も、またその言葉に返辞をする余裕もなかった。泣き出しそうになっていた沢子の顔と、後で恐らく泣いてるかも知れない彼女の姿と、それから、俊彦に離れ得ないで犬のようにくっついてゆく自分の憐れな姿とが、彼の頭に一杯になっていた。
 空はどんより黝ずんでいたが、雨はもう霽れていた。屋根も並木も街路も、それから人通りさえ、凡てのものが雨に洗われて、空気の澄んだ寂寞とした通りを、少し気恥かしいほどの高い泥足駄で、二人はゆっくり歩いて行った。俊彦は暫くたってから、こんなことを云い出した。
「僕は何だか、運命といったものが信じられる気がしますよ。運命と云っても、人間自身の力でどうにもならない、所謂生れながら定まった宿命ではありません。自分の心と一緒に動く或る大きな力です。何か或る方向へ心を向けると、それと一緒に、同じ方へ、運命が動き出すように思えるのです。自分の信念の流れと運命の流れとが、一つになるといった気持です。それを思うと非常に僕は心強くなります。神の意志とでも、自然の反応とでも、人によっていろんな名前をつけるでしょうが、僕に云わすれば、天の交感ですね。その天の交感を、自分が荷ってるということが、はっきり感ぜられるようです。そして僕は、此度は反対に、その天の交感で……運命の動きで、自分の考えの正しいかどうかを見定めたいんです。心を或る方向へ向ける時、その向け方が本当のものである時には、岐度運命の同じ動きが感ぜられますし、向け方が間違ってる時には、それが少しも感ぜられないんです。正しいかどうかを問うんじゃなくて、本当か嘘かを問うんです。そして、そういう本当の心の方向へ進んでゆけば、結果はどうでも、常に悔いがないと僕は信じています。……君はそう思いませんか。」そして五六歩して、昌作の答えを待たないで、彼は俄に苛立った声で云い続けた。「勿論、先刻あすこから逃げ出した意向には、運命の動きなんか伴わなかったし、それかって、悔いも伴いはしませんが……。」
 昌作は我知らず微笑を洩した。
「けれどその反対に、あすこに残るとしましたら、その意向にもやはり、どちらも伴わないではないでしょうか。」
「そうです。腹を立てちゃ駄目ですね。」
 俊彦はじっと昌作の方を顧みて、五六歩すたすた足を早めた。それからまた足をゆるめながら云った。
「君は……僕は今晩沢子さんから聞いたんですが、九州の炭坑とかへ行こうか行くまいかと、迷ってるそうですね。」
「ええ。」
「そいつはどちらなんです?」
「どちらって?……」
「行く方と行かない方と、どちらに運命の動きが感じられますか。」
 昌作は答えに迷った。
「どちらにも感ぜられないんじゃないですか。」
「ええ。どちらにも感ぜられるようでもありますし、また感ぜられないようにも……。」
「それじゃあ、それも結局、柳容堂の二階に残ってるかどうかと、同じものですね。そして君も腹を立ててるという結論になるわけですね。」
 昌作は冷たいものを真正面からぶっかけられた心地がした。そして、凡てを一瞬間に失った心地がした。黙って唇をかんだ。それを知ってか知らずにか、俊彦は他のことを云い出した。
「腹を立てるのは止しましょう。……僕はね、これも運命の動きと同じ感じですが、初対面の人に対して、自分の友になれる人となれない人とを、はっきり感ずることがよくあるんです。君に対して僕は、失礼ですが、親しい友になれそうな気がするんです。……何処かで一杯やりませんか。」
「ええ。」と昌作は殆んど無意識的に答えた。
 俊彦は帯の間から、小さな銀側時計を引出して眺めた。昌作は何とはなしに、こんな場合に彼が時計を持ってるのが、不自然な気がした。
「もう遅いから駄目ですね。」そして俊彦は暫く考えていた。
「穢い家でも構いませんか、その代り酒は上等ですが。」
「どこでも構いません。」と昌作は答えた。何もかもなるようになれという心になっていた。
 電車通りを暫く行って、それから横町へ曲って、次に路次へ曲り込むと、みよし[#「みよし」に傍点]という小意気な行灯の出てる、繩暖簾の小さな家があった。狭い板の間に、大きい粗末な木の卓子が三つ並んでいて、銚子や皿の物を並べた膳を前に、洋服や和服の数人の客が散在していた。側の畳敷の、長火鉢の前に坐っている、黒繻子の襟の着物にお召の前掛をしめた、四十恰好のお上さんに、俊彦はいきなり言葉をかけた。
「遅くなってから済みませんが、二階の室を貸して貰えませんか。」
「まあ、宮原さん、」とお上さんは云った、「ほんとにお久し振りでしたこと。……ええ、散らかってますけれど、どうぞ。今片付けますから。」
 狭苦しい梯子段を上りきった所に、四畳半の室が一方に開いていた。室の中は散らかってる所か、殆んど何にもなくてがらんとしていた。後からお上さんがやって来て、足の頑丈な餉台や、火鉢や、座布団を並べながら、俊彦と二三人の人の噂を話していった。暫くすると、からすみ、このわた、蟹、湯豆腐、鮪のぶつ切り、など誂えの料理が、錫の銚子を添えて持って来られた。天井と畳が煤けて古ぼけてるわりに、障子の紙だけが真白だった。
「どうです、どうせ裏路なんですけれど、柳容堂の二階とは随分感じが違いますね。」
 そう云う俊彦の顔を、昌作はぼんやり見守った。彼の眼に俊彦は、柳容堂の時とは全く別人のように写った。
「何だか、変な気がしますね。」
 俊彦は黙って杯を取上げた。昌作も黙ってその通りにした。可なり更けたらしい静かな晩だった。膝頭から寒さがぞくぞく伝わってきた。二人共しつこく黙り込んで、杯の数を重ねた。俊彦は突然肩を震わした。
「全く変な気がする晩ですね。」
 余り長い間を置いてだったので、昌作はびっくりして、彼の眼を見入った。その時、古い見覚えがあるような眼付をまた見出して、はっと心を打たれた。俊彦はその眼付を、膝のあたりに落して云った。
「僕は打明けて云ってしまいましょう。実は、君をどうしてくれようかと迷っていたんです。どうしてくれようかって……つまり、君の味方になるか敵になるかということです。初め僕はあすこで、非常に素直な気持で君に逢えて嬉しかったんです。所が、あの嫌な男がやって来た時、ふとその一寸前の気分が――君が窓の所へ立っていった時の変梃な気分です……君にも分るでしょう……あの気分が妙にこじれて戻って来たんです。僕があの男に腹を立てたのも、そのためです。それから僕は、運命の動きなんてものを持出して、君が深く悩んでいる九州行きに結びつけて、一寸悪戯をやってみたのです。その上君をこんな所へ引張ってきて、僕は全く自分でどうかしていました。けれど、あの運命に対する信念と、人に対する最初の印象とは、僕の本当の考えです。云わば自分の信条で君をいじめてみたようなものです。」
 俊彦は深く眉根をしかめて、じっと考え込んだ。昌作は初めて彼の心へ本当に触れた気がした。凡てのことがぼんやり分りかけてきた。俊彦が今でもなお、沢子を愛していること、その愛に自ら悩んでいること、などが分ってきた。
 ややあって、俊彦はふいに顔を挙げた。眼が輝いて、いやに真剣な様子だった。昌作も自ずと襟を正すような心地になった。
「君は沢子さんをどう思います?」
 昌作は息をつめて返辞が出来なかった。俊彦はそれでも平静な調子で云った。
「僕にはあの女のことが、どうもはっきり分りません。何処か少し足りない所があるか、それとも何処か非凡な所があるか、そのどちらかでしょうね。」
「そうですね。」と昌作は漸く答えた。「そして、考え方が、突然意外なものに飛んでゆくので、私は喫驚するようなことがあります。」
「そんな所がありますね。……それから、君は沢子さんを、処女だと思いますか。」
 昌作は大抵のことは予期していたけれど、それはまた余りに意外な言葉だった。それに対する自分の考えをまとめるよりも、相手の気持を測りかねて、黙っていた。
「え、君はどう思います? 本当の所は……。」
「そうですね、私は……。」そして昌作は自分でも不思議なほどの努力で云った。「まだ処女だと思っています。」
 俊彦は深く息をついた。
「君がそう信じてるんでしたら、僕達の物語をお話しましょう。なぜなら、沢子さんを処女だと信じてる人にしか、この話は理解出来ないような気がするんですから。……僕はまだこんなことを誰にも話したことはありませんし、今後も恐らくないでしょうが、君にだけは、妙に話したくなったんです。ただ、誓って、君の胸の中だけにしまっといて下さいよ。」
 昌作はそれを誓った。俊彦は話しだした。そして初めから、二人共不思議に心が沈んできて、暗い憂鬱な気分に閉されたのだった。勿論俊彦の話は、その内容が理知的なにも拘らず、非常に早口になったり、一語々々言葉を探すようにゆるく
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