事柄が、積りに積ってくる――その全体の重量を背に荷った人でなければ、分るものでありません。――君は、豊島与志雄氏の理想の女[#「理想の女」に傍点]という小説を読んだことがありますか。何なら読んでごらんなさい。この間の消息が可なり詳しく、執拗すぎると思われる位の筆つきで書かれていますから。
 で、要するに、その頃僕の心は、可なり妻から離れて、或るやさしい魂を求めていたことだけは、君にもお分りでしょう。
 そういう心で僕は妻を眺めてみて――今迄よく見なかったものを初めてしみじみと眺める、といった風な心地で眺めてみて、喫驚したのです。何という老衰でしょう! 髪の毛は薄くなって、おまけに黒い艶がなくなっています。昔はくっきりとした富士額だったその生え際が、一本々々毛の数を数えられるほどになっています。顎全体がとげとげと骨張っていて、眼の縁や口の隅に無数[#「無数」は底本では「無新」]の小皺が寄っています。或る時彼女が庭に立って、真正面から朝日の光を受けてるのを見た時、僕はまるで別人をでも見るような気がしました。昼間の明るい光の中に出てはいけない! そう僕は咄嗟に感じたのです。……けれど、それら
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