てるとすれば、一方は老衰しひねくれ悪臭を立ててる女性を象徴していたのです。……沢子はきっと口を結び眼を空に定めて端正と云えるほどの顔付で、じっと僕の横に坐っていました。飯田町駅で汽車から下りて、云い合わしたように左右へ別れる時、僕達は許し合った眼付をちらと交わしてから、まるで他人のようなお辞儀をし合ったものです。
僕は真直に家へ帰りました。再び雨が落ちてきそうな陰鬱な空合でした。僕の心は捨鉢になっていました。玄関から大跨に飛び込んで、「昨夜は遅くなって三浦君の家へ泊ってきた、」と怒鳴るように妻へ云ったものです。妻は何とも答えませんでしたが、何かをその瞬間に直覚したらしくじっと僕を見つめました。その眼が一切の決算を求めてる、というように僕は感じました。
そして、それが最後でした。
翌日僕は士官学校で、沢子の手紙を手にしました――先生、もう致し方ございませんわ、私は先生を愛しております。とただその三行だけの、名前も宛名もない中身でした。僕はその文句を、幾度口の中でくり返したことでしょう。
それから三日目に、妻は僕の不在中に出て行ったきり、二人の子供まで置きざりにして、もう帰って来ま
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