す。僕達は何もかもうち忘れて、うっとり微笑まずにはいられませんでした。恋と云うには、余りに親しすぎるなつかしい感情だったのです。
 それは、一時の幻だったのでしょうか?
 翌朝、起き上って、前日来のことがはっきり頭に返ってきた時――妙に顔を見合わせられない気持で相並んで、曇り空の下の河原の景色を眺めた時、深い底知れぬ悲しみが胸を閉ざしてきて、僕は手摺につかまったまま、ほろほろと涙をこぼしたのです。沢子もしめやかに泣き出していました。暫く泣いていてから、彼女はふと顔を挙げて、「先生……」と云いました。僕もすぐに、「沢子さん……」と答えました。そして二人は、初めて唇を許し合ったのです。
 その後の僕の気持は、君の推察に任せましょう。僕達は恐ろしい罪をでも犯したもののように、慌だしくその家を飛び出して、急いで東京へ帰って来ました。その時僕の眼前の彼女は、もう可愛い無邪気な少女ではなかったのです。自由な溌溂とした若々しい一人前の女、として彼女は僕の眼に映じました。そして東京へ近づくに従って、僕は妻のことを、自分を束縛してる醜い重苦しい肉塊のように感じ出したのです。一方が若い香ばしい女性を象徴し
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