す。
それから、夕食をしたためて、ぼんやりして、雨が少し降り出して、雨の音を楽しく聞きながら、ぽつりぽつり話をしたり、顔を見合って他愛もなく微笑んだりして、女中がお泊りですかって聞きに来たのへ、平気で首肯いて、別々の床へはいって、安らかに眠ってしまったのです。
こう簡単に云ってしまうと、君はそれが本当でないように思われるでしょう。然し実際にその通りだったのです。僕はこう思います、妻子のある相当年配の男が恋をする場合には、その恋は極めて肉的な淫蕩なものであるか、或は極めて精神的な清浄なものであるか、そのどちらかだと。そして僕のは、全く後者だったのです。その上僕の眼には、沢子がごく無邪気な少女のように映じていたのです。前に云ったように、ごく晴れやかな娘だったのです。僕はその晩彼女と対座していながら、どうして自分はこんな若い娘に恋したのかと、幾度自ら怪しんだことでしょう。そしてその時の僕の気持は、恋ではなくて、可愛いくてたまらないといったような、そして親しいしみじみとした愛だったのです。彼女の方でも、全く信頼しきった、何一つ濁りや距てのない、清らかな澄みきった眼で、僕をじっと見ていたので
前へ
次へ
全176ページ中105ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング