する言葉は一言も僕達の口へ上らなかったのです。全く忘れはてたかのようでした。それから僕の告白の手紙についても同様でした。僕達は全く無関係な取留めない事柄を、ぽつりぽつり話したものです。どんなことだったか覚えていませんが、ただ、気象学では雲を十種に区別してるけれど、僕にはその二三種きり見分けきれない、ということや、水蒸気が空中で凝結して雨になるまでの経路が、専門家にもまだはっきり分っていないそうだ、というようなことを、僕は彼女へ話したのを覚えています。というのは、北の空から薄い雲が徐々に拡がりかけていたからです。また彼女の方では、壁の中から爺さんと婆さんとが杖ついて出てくるという石川啄木の歌を読んで、童話を書きたくなったということを、僕に話したのを覚えています。
そういう風に、何ということもなく歩いてるうちに――三月の末のわりに日脚の暖い日でした――僕は次第に或る焦燥――というほどでもないが、何かこう落着かない気分になりました。彼女もしきりに、洋傘《こうもり》を右や左へ持ちかえていましたが、ふいに云い出したのです。
「先生、私もっと遠くへ行ってみたい気がしますの、一度も行ったことのない
前へ
次へ
全176ページ中103ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング