いう時間に在った。昌作はそれをよく知っていた。やがていろんな――恐らく自分の見覚えある――客がやって来て、自分は此処から帰って行かなければならない、と彼は感じた。もしくはじっと我慢していて、沢子の帰りを待つ……然し彼はどんなことがあっても、そういう卑しいことをしたくなかった。それはただ沢子から軽蔑される――また自分で自分を軽蔑する――ばかりのことだとはっきり感じた。今だ! という気がした。
 何が今だかは、彼にもはっきりしていなかったが、彼はその日の初めから、変に調子の狂ってる自分自身を、頭痛のせいも手伝って、どうにかしなければ堪えられなかった。一方は暗い淵で一方は明るい天だ、という気がした。その中間に立っている力が、もう無くなりかけていた。心がめちゃめちゃになりそうだった。――そして彼の決心を更に強めたのは、先刻夢のように聞いた歌だった。その歌が変な風に頭へ絡みついてきて、静かながらんとした白い室の中で、自分の運命を予言する不吉な悪夢のような形になった。
 長くたって――と彼は感じたが、実は暫くたって、沢子が奥から出て来た時、彼はすぐその方へ振向いた。沢子はじっと彼の顔を見て、其処に立止った。瞬間に彼は、殆んど閃めきのように、宮原俊彦の言葉を思い出した――僕の天は澄み切っていると共に変に憂鬱です。それが、全く沢子の立姿そのままだった。彼は唇をかみしめながら、彼女の白々とした広い額を眺めた。
「沢ちゃん、僕は君に話があるんだが……。」と彼は云った。
「なあに?」
 落着いた声で答えておいて、彼女は寄って来た。
 どう云い出していいか迷ってるうちに、彼の頭へ、別なもっと重大な事柄が引っかかってきた。彼は口籠りながら云った。
「僕は真面目に、真剣に聞くんだが……それが僕に必要なんだよ……はっきり分ることが……本当のことを云ってくれない? 君と宮原さんと、どうして結婚しなかったかという訳を。」
 沢子は彼の真剣な語気に打たれたかのように、顔を伏せて暫く黙っていたが、やがてきっぱりと云った。
「宮原さんに二人もお子さんがあるから。」
「それは先刻《さっき》聞いたが、それだけのことで?」
 沢子はまた暫く黙っていたが、ふいに椅子へ腰を下して、ゆっくり云い出した。
「ええ、それだけよ。他に何にもありゃしないわ。宮原さんはこう仰言ったの、私には二人も子供がある、私の生活はもう固まってしまってる、けれど、あなたは若い、自由な広い生涯が前に開けている、そのあなたを私の固まってる生活の中に入れるには忍びない、忍びないだけじゃなくて、出来ないのだ……そして……まだあったけれど、私よく覚えていないの。」彼女の言葉は次第に早くなっていった。「ええ、そうよ、まだいろんなことを仰言ったけれど……私はもう固った生活を守ってゆけるとか、あなたは一つの型の中にはいるのは嘘だとか……そんなことを……私よく覚えていないけれど、それを私、幾日も考え通したのよ。そして宮原さんの仰言ることが本当だと感じたの。理屈じゃ分らないけれど、ただそう胸の底に感じたの。そしてどんなに泣いたか知れないわ。私本当は、宮原さんを愛してたの。宮原さんも、私を愛して下すったの。愛してるから一緒になれないんだって……。私が泣くと、沢山泣く方がいいって……。それで私、泣いて泣いて泣いてやったわ。自分でどうしていいか分らないんですもの。そして、構うことはないから捨鉢になったのよ、自由に飛び廻ってやれって気になって。けれど、宮原さんがいらっしゃることは、私にとっては力だったわ。私一生懸命に勉強するつもりになったのよ。」
「それじゃやはり、心から愛していたんだね。」
「ええ、心から愛していたわ。宮原さんも、心から私を愛して下すったの。」
「では結婚するのが本当だったんだ。結婚したからって、君が全く縛られるわけじゃないんだから。」
「縛られやしないけれど、私は、もっと自由にしていなけりゃいけないんですって。大きな二人の子供の世話なんか私には出来やしないんですって……。私の世界は宮原さんの世界と違うんですって……。だから、愛し合うだけで十分だったのよ。」
「そのうちに年を取ってしまうじゃないか。」
「ええ、年を取ってしまうわ。それまでの間のつもりだったわ。」
「年を取ってからは?」
「年を取ってからは……結婚するつもりだったのよ。それが本当だわ。もっともっと、いろんなことをしてから、勉強をしてから、そして世の中に……何だかよく分らないけれど、私が落着いてから……とそう思ったのよ。」
 その時、二人は突然口を噤んでしまった。そして驚いたように眼を見合った。はっきりしてきた。過去として話していたことが、実は現在のことだったのである。昌作は彼女の眼の中にそれを明かに読み取った。彼女は顔の色を変えた。物に慴えたよう
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