え。」
不思議なことには、眼に涙をためて右の会話をしてる間、沢子は勿論昌作までが、まるで十五六歳の子供のような心地になっていたのである。所が、ふと言葉が途切れて、互に顔を見合った時、あたりの空気が一変した。昌作はそれをはっきり感じた。自分の眼付が情熱に燃え立ってくるのを覚えた。沢子は少し身を退いて、薄い毳《むくげ》のありそうな脹れた唇を歪み加減に引結んで、下歯の先できっと噛みしめていた。
昌作は堪え難い気持になった。顔が赤くなった。眼を外らして首垂れると、ひどく頭痛を感じ出した。眼の前が真暗になりそうだった。ふらふらと立上って、室の中を少し歩いた。
「火に当りすぎたせいか、ひどく頭痛がするから、此処で少し休ましてくれ給え。」
そう云って彼は、向うの隅の卓子に行って坐った。そして、沢子が持って来てくれた外套を着て、その襟を立て帽子を目深に被って、暮れてしまった戸外の闇と明るい電燈の光とを、重苦しい眼でちらと見やってから、卓子の上に組んだ両の前腕に頭をもたせた。凡てが駄目だ! という気がした。沢子が暫く傍につっ立っていたのを、それからやがて、彼女が水を持ってきてくれたのを、彼は夢のように感じながら、暗い絶望の底に沈んでゆく自分自身を見守っていた。――そして実は、昌作はその時嫌な酔い方をしていた。頭にまるで弾力がなくなって、脳の表皮だけがきつく張りきって、薄いセルロイドの膜かなんぞのように、びーんびーんと音を立てて痛んでいた。それが半ばは彼の暗い絶望を助長していた。
けれどその絶望の底まで達すると、彼の心はわりに落着いた。窓硝子にちらちらする街路の光や、その硝子越しに聞ゆる電車の響きなぞは、いつしか彼を夢のうちにでもいるような心地になした。彼はうっとりと――而も何処か苛ら苛らと思いに沈んだ。自分が此処にこうしてつっ伏してることが、遠い記憶の中にあるようだった。それを見守ってるうちに、疲労と酔いと頭痛――遠い大きな頭痛とに圧倒されていった。一切のことが茫と霞んでいった。そして彼はぐっすり――殆んど安眠と云ってもよいほどに眠ってしまったのである。
幾時間かたった……。
遠い所で、調子のよい澄んだ声と、少し濁りのある調子外れの声とが、一緒に歌をうたっている――
[#ここから3字下げ]
山田《やーまだ》のなーかの、一本|足《あち》の案山子《かがち》
天気《てーんき》のよいのに蓑笠《みのかちゃ》ちゅけて
朝《あーちゃ》から晩《ばーん》までたーだ立ち通ち
歩《あーる》けなーいのか山田の案山子《かがち》
………………………………
[#ここで字下げ終わり]
歌が止むと、何かに遮られたような低い話声がする。
――駄目よあなたは、調子っ外れだから。
――ええ、私は何をやっても調子外れだけれど……だって、かがち[#「かがち」に傍点]なんて云えやしないわ。
――三つと六つのお子さんだから、そう云わなくちゃいけないわ。
――六つでまだ片言《かたこと》を仰言るの?
――ええまだ。いっぽんあち[#「いっぽんあち」に傍点]、かがち[#「かがち」に傍点]、なのよ。それに、宮原さんまで片言で一緒に歌っていらっしゃるから、そりゃ可笑しいのよ。
昌作は、宮原という言葉に注意を惹かれるはずみに、はっと眼を覚した。上半身を起して振向くと、向うの煖炉の側に、珈琲碗や菓子皿が幾つも取散らされたままの卓子に、沢子と春子とが坐っていた。二人は昌作が起上ったのを見て、ぷつりと話を止めてしまった。それがまた、何か云ってならないことを云ったという様子だった。昌作はぞっと寒けを感じた――その沈黙と一種妙な探り合いの気配とから。彼は深く眉根を寄せたが、それを押し隠すように伸びをして、黙って煖炉の方へ立っていった。
「ほんとによく眠っていらしたわね。」と春子が云った。
「ええ、たべ酔ってね……。」
その言葉に後は自ら不快になった。卓子の上の皿類を見廻しながら云った。
「僕の知った人が来やしなかったのかい?」
「さあ……いいえ誰も。幾人もいらしたけれど、滅多に見ない人達ばかり……ねえ。」と彼女は沢子の方を見た。
「ええ。」と沢子は首肯いた。
「そんなに沢山客があったの!」
「沢山というほどじゃないけれど……今もね、お児さん連れの方がいらしたんですよ。」そして春子は慌てたようにつけ加えた。「ご気分は?……少しはよくおなりなすって?」
「ええ、ぐっすりねたものだから……。」
その時彼は時計を仰いで喫驚した。九時近くを指していた。
二人が皿類を取片付て奥へはいって行った間、昌作はじっと煖炉の前に屈み込んだ。それは、或る家《うち》では最も客が込むけれど、或る家では妙に客足が途絶えることのある、一寸合間の時間だった。そして柳容堂の二階は、後の部類に属していて、今が丁度そう
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