を遣り取りしてるのまでが、何だか変に上の空だった。けれど、彼はその時ぴたりと口を噤んでしまった。沢子の鋭い眼付に出逢ったのだった。彼女の眼には、彼がこれ迄嘗て見たことのないほどの鋭い現実的な――彼には何故となく現実的と感じられた――色が浮んでいた。
「余りこんな強いお酒を飲むからよ。」と彼女は云った。「お水《ひや》を持ってきてあげましょうか。」
 昌作は彼女の眼を見返して、彼女がごまかしを云ってることをはっきり感じた。うっかり返辞が出来ない気がした。沢子は彼の顔をじっと見ていたが、やがて突然叫んだ。
「やっぱりそうよ。あなたは何か苦しんでいらっしゃるに違いないわ。宮原さんの仰言った通りよ。」
「宮原さん……。」昌作は云った。
「ええ、宮原さんはあなたが苦しんでいらっしゃるかも知れないって……。」
 彼女は云いさして唇をかんだ。そして暫く空《くう》を見つめていたが、ふいに立上った。
「私あなたにお見せするわ。」
 沢子が奥に引込んで行く姿と昌作の顔とを、春子は不思議そうに見比べていたが、ふいに奥深い笑みを眼の底に漂わした。
「大丈夫ですよ。心配なさらなくても……。」
 そんなことを云い捨てて、彼女は奥へ立っていった。
 沢子はなかなか出て来なかった。昌作が待ちあぐんで苛ら苛らしてると、漸く沢子はやって来た。そして一枚の葉書を彼へ差出した。
「今朝、宮原さんから来たのよ。読んでごらんなさい。」
 昌作は受取って読んだ。

[#ここから2字下げ]
御手紙拝見。またそんなむちゃなことを云ったって駄目ですよ、もう少し待たなくては。それから、佐伯君とは快く話が出来て、僕も嬉しい気がします。ただ、変な工合になって、誰にも話さなかったことを、僕達の昔のことを、すっかり話してしまったが、後で考えると、少し早すぎたように思われます。佐伯君のうちには、まだあなたが本当に知っていないものがあるようです。或は、後で何か苦しんでいるかも知れません。逢ったら慰めて上げて下さい。何れまた。
[#ここで字下げ終わり]

 昌作はそれを二度繰返して読んだ。眼の中に熱い涙がにじんでくると同時に、また反対に、呪わしい憤りが湧き上ってきた。彼は葉書の表までよく見調べてからこう云った。
「君はこれを、僕に見せるために、わざわざ持って来たの?」
 その泣くような詰問するような調子に、沢子は一寸眼を見張ったが、静に答えた。
「いいえ。お午前《ひるまえ》に受取ったんだけれど、何だかよく分らないから、なお読みながら考えようと思って、持って来たのよ。」
 昌作はなお云い進んだ。
「君は一体僕を宮原さんに逢わして、どうするつもりだったんだい?」
 沢子は暫く黙っていたが、もう我慢出来ないかのように云い出した。
「あなたそんな風に取ったの? 私、そんな気持じゃちっともなかったのよ。……あんまりひどいわ。私あなたのことをいろいろ考えてみたの。考えると何だか悲しくなって……。」そして彼女は眼を濡《うる》ました。「自分でもなぜだか分らないけれど、ただ変に悲しくなって……こんな風に云ったからって怒らないで頂戴……どうしたらいいかといろいろ考えて、そしてふと宮原さんのことを思いついたのよ。宮原さんは、そりゃしっかりした真面目な方なんですもの。私どれくらい力をつけて貰ってるか分らないわ。よくむちゃを云うって叱られるけれど、叱られて初めて、自分が軽率だったことに気がつくのよ。私何だか、あの方はいつも深いことばかり考えていらして、一目で心の底まで見抜いておしまいなさるような気がするの。そして大きい力を持っていらっしゃるような気がするの。そうじゃないかしら? 私一人そんな気がするのかしら? ……いえ、確かにそうよ。それで私、あなたも宮原さんにお逢いなすったら、屹度いいだろうと思ったの。そして私達三人でお友達になる……そう考えると非常に嬉しくって、もう一日も待っておれなかったの。私宮原さんにいつも、無鉄砲で独り勝手だと云われるけれど、自分ではよく考えてるつもりなのよ。私ほんとに悲しかったんですもの……いろんなことを考えて。それが、三人でお友達になったら、みんなよくなるような気がしたの。それをあなたは……。」
 彼女は一杯涙ぐんでいた。それが宛も小娘みたいだった。昌作は心のやり場に迷った。迷ってるうちに、いつしか自分も涙ぐんでしまった。
「だって、三人で友達になってどうするんだろう?」
「私それが嬉しいわ。」
「然し三人の友達というのは……一寸何かがあればすぐ壊れ易いものだよ。……君達だって、宮原さん夫婦と君と、躓いたじゃないか。」
「あれは私達が悪いのよ。」
「悪いって?」
「だって私達は……一寸でも……愛し合う気になったんですもの。愛し合う気になったのが悪いのよ。」
「愛し合う気になったのが?」
「え
前へ 次へ
全44ページ中40ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング