すの。でも、利くことも利かないこともあって……それは何かの加減でしょうよ。」
 そう云って春子は眼の隅に小皺を寄せて、如何にも気の善さそうに笑った。
「じゃあ何にもならないわ。私葡萄酒をお燗して飲むといいって聞いたけれど、それと同じことだわ。」
 それから二人の話は、宛も暫く振りで逢った間柄かのように、天気のことや、風のことや、頭の禿のことや、紅茶のことなど、平凡な事柄の上に飛び廻った。昌作は自分自身を何処かに置き忘れたような気持で、黙り込んでぼんやり聞き流していたが、二人の滑かな会話がいつしか心のうちに沁み込んで、しみじみとした薄ら明るい夢心地になった。そして強烈な洋酒の杯をちびりちびりなめてるうちに、心の底に、薄ら明りのなかに、或る影像が浮き上ってきた。その意外な不思議な幻想に自ら気付いたら、彼は喫驚して飛び上ったかも知れないが、然しその時その幻想は、彼の気持にとっては如何にも自然なものだった。
 ――彼は、最後の病気をする少し前の母の姿を思い浮べた。狭い額に少し曇りがあって、束髪の毛並が妙に薄く見えるけれど、ふっくらした皮膚のこまやかな頬や、少し歯並の悪い真白な上歯が、いつも濡いのありそうな唇からちらちら覗いてる所や、柔かにくくれてる二重※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]や、厚みと重みとのある胸部などは、三十四五歳の年配とは思えないほど若々しかった――と共に、三十四五歳の豊満な肉体を示していた。彼女はいつも非常に無口で、そして大変やさしかった。じっと落着いていて、愁わしげに――でも陰気でないくらいの程度に、何かを思い沈んでいた。そのくせ女中や他人なんかに対しては極めててきぱきしていて、型で押すように用件を片付けていった。家の中を綺麗に掃除することが好きだった。朝晩は必ず仏壇に線香を焚いて、長い間その前に坐っていた。ごく小さな仏壇には、ささやかな仏具と共に古い位牌が三つ四つ並んでる中に、少し前方に、新しい粗末なのが一つあった。彼はその位牌の文字が気になって、じっと覗き込んだが、どうしても分らなかった。そのうちに、何処からだかぼっと光がさしてきて、文字が仄かに見えてきた。木和田五重五郎[#「木和田五重五郎」に傍点]と誌してあった。彼はその名前に見覚えがあるような気がしたが、どうしてもはっきり思い出せなかった。母は悲しい眼付をして、なおじっと坐っていた。黄色っぽい薄ら明りがその全身を包んでいた。けれど、今にも次第に暗くなってきそうだった。眼に見えるようにじりじりと秋の日脚が傾いていった。冷々とした風が少し吹いて、さらさらと草の葉のそよぐ音がした。木和田五重五郎[#「木和田五重五郎」に傍点]の位牌が、野中の十字架のように思われた。雑草の中に一つぽつりと、灰白色の円いものが見えた。野晒しの髑髏だった。その上を冷たい風が掠めていった。彼は堪らなく淋しい気持になって、我知らず口の中で繰返した。――野ざらしを心に風のしむ身かな[#「野ざらしを心に風のしむ身かな」に傍点]。――それをいくら止めようとしても、やはり機械的に繰返されるのだった。一生懸命に止めようと努力すると、気が遠くなって野原の真中に倒れた。胸がまるで空洞になって、風がさっさっと吹き過ぎた。自分の魂が髑髏のようになって、胸の中に……野の中に転っていた。晩秋の日はずんずん傾いていった。大きな影が徐々に落ちてきた。風が止んで非常に静かになった。彼は立ち上ってまた歩きだした。胸がどきどきして、頭がかっと熱《ほて》っていた。眼が眩むようだった。細目に見開いてみると、すぐ前を厚い白壁が遮っていた。長年の風雨に曝されて、薄黒い汚点《しみ》が這い廻ってる、汚い剥げかかった壁だった。その上を夕暮の影が蔽っていた。影の此方に四角に窓硝子があって、ぼんやり人影が写っていた。それが堪らなく淋しかった。彼は眼を外らした。表に面した窓から、小さな銀杏の並木の梢が見えていて、散り残った黄色い葉が五六枚、街路の物音に震えていた。
 彼が気がついてみると、沢子と春子とは、先程から話を途切らして、彼の顔をじっと見てたらしかった。彼は何だか顔が挙げられなくて、首垂れながら太く溜息をついた。
「熱でもおありなさるんじゃないの?」と春子が云った。
 彼は無意識に手を額へやってみた。額が熱くなって汗ばんでるのを感じた。

「なに、煖炉の火気を少し受けすぎたんだろう。何でもないよ。」
「でも変に苦しそうなお顔でしたよ。」
「一寸夢をみたようだった……。」
「夢?」
「と云って悪ければ……いややはり夢だよ。」
「おかしいですわね、眼をあいてて夢をみるなんて。」
「白日夢ってね。」
「あら……ひどいわ。人が本気で心配してるのに冗談なんか云って。」
 然し彼は、まだ先刻の幻想から本当には醒めきれないでいた。春子と言葉
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