る胎《はら》を据えた而も暗い気持になった。
彼を迎えた沢子は、何か気懸りなことがあるらしい妙に沈んだ様子だった。
「あれから何をしていらして?」と彼女は尋ねた。
「いろんなことがあったよ。」と答えて昌作は俄に云い直した。「が何にもしないで、ぼんやりしていた。例によって猫の生活さ。」
「そう。ずっと家にいらしたの。私あなたが昨日にでも来て下さるかと思って待ってたけれど、来て下さらないから、今日電話をかけたのよ。まあ……あなたは変な真蒼な顔をしてるわ。」
昌作はふいに拳《こぶし》で額を叩いた。
「少し頭痛がするだけだよ。感冒《かぜ》をひいたのかも知れない。……強い酒を飲ましてくれないか、いろんなのを三四杯。ごっちゃにやるんだ。感冒の神を追っ払うんだから。」
「そんなことをして大丈夫?」
心配そうに覗き込む彼女を無理に促して、彼はいろんな色の酒を三四杯持って来させ、煖炉の火を焚いて貰い、その前に肩をすぼめて蹲った。沢子も彼の横手に腰を下した。
「あなたは本当に家にぼんやりしていらしたの?」と彼女はまた尋ねた。
「そうさ。」
「あれからどんなことをお話なすったの、宮原さんと?」
「ああ、あの晩?」彼は沢子の顔をちらと見やった。「宮原さんの述懐を聞いたよ。」
「述懐って?」
「君と宮原さんとの物語さ。」
沢子は少しも驚かなかった。
「それからすぐに帰って寝たよ。」
「いえ、その外に……。」
「何にも話しはしなかった。もう遅かったし、宮原さんの話が馬鹿に長かったからね。そんなに話が出来るものか。」
「じゃあほんとにそれきり?」
「可笑しいな。何がそんなに気にかかるんだい。宮原さんには君が僕を紹介したんじゃないか。」
「でも、何か……むつかしい話をして、それであなたが苦しんでなさりはしないかと、ただそんな気が私したものだから……。」
「そりゃあ、苦しんだかも知れないさ。」と不機嫌に云いかけて、昌作はついむきになった。「ほんとに苦しんだよ。いくら考えても分らないからね。」
「何が?」
「何がって、僕にも分らないよ。何もかも分らなくなってしまった。何もかも駄目なんだ。もうどうなったっていいさ。」
そしてまだ云い続けようとしているうちに、誠実とも云えるほどの沢子の眼付に彼はぶつかった。変に気が挫けて、先が続けられなかった。そして暫く黙ってた後に、馬鹿々々しい――その実真剣な――一つのことが頭に引っかかってきた。彼は云った。
「僕はいくら考えても分らない、話を聞いても分らない、まるで謎みたいな気がするが……実際僕には謎のように思えるんだ。」
「どんな謎?」
「宮原さんと君との関係さ。」
「あらいやよ、関係だなんて。ただのお友達……先生と……お弟子といったような間じゃありませんか。」
「今じゃないよ。あの時……宮原さんが奥さんと別れた時に……。」
「だって、宮原さんには二人もお子さんがおありなさるでしょう。」
「それだけの理由で?」
「ええ、それだけよ。」
が彼女はその時ふいに、耳まで真赤になった。昌作は驚いてその顔を見つめた。けれど次の瞬間には、彼女はまた元の清澄な平静さに返っていた。彼は恥かしくなった。そして泣きたいような気持になった。
「もうそんな話は止そう。」と彼は呟いた。
「ええ、何か面白い話をしましょうよ。……そう、私春子さんを呼んでくるわ。私ね、あの人に何もかも話すことにしてるの。あの人と宮原さんが、私の一番親しいお友達よ。……そりゃあ気の毒なほんとにいい人なのよ。」
そう云いながら彼女は立上った。昌作はぼんやりその後姿を見送った。極めて善良らしくはあるがまた可なり鈍感らしい春子と、どうして沢子がそう親しくしてるのか、昌作には不思議な気がした。二人は全く似つかわしくなかった。同じ家に二人きりで働いてるということと、春子が殆んど一人でその喫茶部全体の責任を負わせられてるということとだけでは、二人が親密になる理由とはならなかった。強いて云えば、表面何処か呑気な楽天的な所だけが相通じていたけれど、それも春子のはその善良さから来たものらしいのに、沢子のはその理知から来たものらしかった。――昌作は、やがて奥から沢子と一緒に出て来た春子の、一寸見では年配の分らない、変に厚ぼったい、にこにこした顔を、不思議そうに見守った。
「佐伯さん、お感冒《かぜ》ですって?」
眼の縁で微笑しながら春子はそんなことを云った。
「ええ、少し。」
「それじゃ、お酒よりも大根《だいこ》おろしに熱いお湯をかけて飲むと、じきに癒りますよ。」
昌作が黙ってるので、沢子が横から口を出した。
「ほんとかしら?」
「ええほんとですよ。寝しなにお茶碗一杯飲んでおくと、翌朝《あさ》はけろりとしててよ。」
「あなた飲んだことがあって?」
「ええ。感冒をひくといつも飲むんで
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