外には薄く霧がかけていた。
 彼は或る計画を立てるつもりだった、もしくは、或る解決の途を定めるつもりだった。――濃霧の中にでも鎖されたような自分自身を彼は感じた。九州行きの問題も、自然立消えのようでいて、実はまだ宙に浮いていた。片山禎輔の告白によって、片山夫妻と自分との間に、新たな引掛りが出来てきそうだった。宮原俊彦に対しても、このままでは済みそうにない何かが残っていた。そして沢子! 彼女一人が、それらのものの中に半身を没しながらも、俊彦との関係や禎輔の批評などを引きずりながらも、なお高く光り輝いているように、彼の眼には映ずるのだった。そして、その沢子を得るには、どうしたらよいかを彼は考えた。慎重にやらなければいけない、とそう思った。不思議にも、この慎重ということが、今の場合彼には大事だった。もし軽率なことをしたら、高く輝いている沢子までが、いろんなごたごたしたものの中に沈み込んでしまいそうだった。そうしたら、自分自身がどうなるか分らない気がした。どんなことがあっても、沢子だけは高く自分の標的として掲げておきたかった。――そういう彼の気持を強めたのは、一つは亡き母のことだった。彼は母に対して、一種敬虔な思慕の念を懐いていた。そして母と禎輔との関係については、別に憤慨の念は覚えなかった。それを彼ははっきり考えたことはなかったが、前から知ってるようでもありまた知らないようでもあった。が何れにしても、それは遠い昔のことだった。けれども彼は、今突然はっきりしてきたその事柄から、深い絶望に似た憂鬱と寂寥とを覚えた。母のことではなく、自分自身のことが、堪え難いほど悲しく淋しかった。沢子、お前だけはいつまでも僕のために輝いていてくれ! そして彼は涙と焦燥とを同時に感じた。然し、慎重にしなければならなかった。といって、愚図愚図してもおれなかった。彼はいろんな方法を考えた。片山達子に凡てを打明けてみようか? ……宮原俊彦にぶつかっていってみようか? ……片山禎輔の力をかりることにしようか? ……沢子の前に身を投げ出してみようか? ……片山夫妻のどちらかを宮原俊彦に逢わしてみようか? ……其他種々? ……然しどれもこれも、ただ事柄を複雑にするばかりで、何の役にも立ちそうになかった。一寸何かが齟齬すれば、凡てががらがらに壊れ去りそうだった。一層ぶち壊してしまったら? ――然しその後で……?
 立てるつもりの計画が少しも立たなかったのは、彼の受動的な無気力な性質のせいでもあったが、更になお頭痛のせいだった。二三日来の心の激動と前夜の馴れぬ葡萄酒の宿酔とのために、頭が恐ろしく硬ばって痛んで、何一つはっきりと考えることが出来なかった。頭脳の機関全体が調子を狂わして、ぱったり止って動かない部分と眩《めまぐる》しく回転する部分とがあった。それで彼は前述のようなことを、秩序立てて考えたのではなくて、一緒くたにまた断片的に考えたのだった。凡てが夢のようであると共に、部分々々が生のまま浮き上って入り乱れていた。
 膝の上に眠ってしまった猫を投り出して、それが、伸びをして欠伸《あくび》をして、没表情な顔で振返って、またのっそり炬燵の上に這い上ってくるのを、彼はぼんやり見守りながら、いつまでも考え込んだ。頭痛のために昼食もよく喉へ通らなかった。戸外の霧がはれて、薄い西日が障子にさしてきてからも、彼はなお身を動かさなかった。
 二時頃、柳容堂から電話がかかってきた。それでも彼の心はまだ夢想から醒めきらなかった。ぼんやり電話口に立つと、沢子の声がした。
「あなた佐伯さん? ……私沢子よ。……何していらっしゃるの?」
「何にもしていない。」
「じゃあ、一寸来て下さらない? 話があるから。今すぐに。」
「今すぐ?」
「ええ。晩は他に客があるとお話が出来ないから、今すぐ。お待ちしててよくって?」
 昌作は一寸考えてみた。がその時、彼は急に頭が澄み切って、我知らず飛び上った。沢子の許へ駈けつけてゆくという一筋の途が、はっきり見えてきた。彼は怒鳴るようにして云った。
「すぐに行くよ。」
 そして沢子の返辞をも待たないで、彼は電話室から飛出して、大急ぎで出かけていった。
 けれど、柳容堂へ行くまでのうちに、訳の分らない恐れが彼の心のうちに萠した。何かに駆り立てられてるような自分自身を恐れたのか、或はこの大事な時にひどく頭がぼんやりしてるのを恐れたのか、或は一切を失うかも知れないことを恐れたのか、或は一切を得るかも知れないことを恐れたのか、或は取り返しのつかないことになりはしないかを恐れたのか、何れとも分らなかったが、多分それらの凡てだろう。恋してる女の所へ行くというような喜びは、少しも感じられなかった。そして彼は非常に陰惨な気持になり、次には捨鉢な気持になり、それから、何でも期待し得
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