す。私はどうしていいか分らなくなります。……此度躓いたら、もう何もかも駄目です。私自身は駄目になってしまうんです。もう立上ることが出来ないかも知れません。もう今迄のようなぐうたらな生活を続けることも出来ないし、働くことも出来ないかも知れません。全くめちゃくちゃになりそうです、此度躓いたら……。」
然し彼の心は別なことを感じていた。それは「此度躓いたら」ではなくて、「沢子を失ったら」であった。彼はその時、沢子こそ自分の生活を照らしてくれる光であることを、ひしと感じたのだった。生活を立て直すには、仕事を見出すことが第一であると禎輔は云ったが、また、何をやるかという方向を見出すことが第一であると俊彦は云ったが、それよりも実は、沢子こそ最も必要であることを、彼は感じたのだった。沢子を失ったら、凡てが暗闇のうちに没し去るということを、感じたのだった。――そして彼は突然涙に咽んで云った。
「考えてみます。……よく考えてみます。」
禎輔は一寸肩を聳かした。昌作の言葉とその心との距りを少し気付き初めたかのように、彼の顔をじっと見つめた。がその時昌作は、自分の心を曝すのが堪え難くなって、咄嗟に、殆んど滑稽なくらい突然に、卓子の方へ向き直りながら云った。
「少し腹が空きましたから……。実は食事をしていなかったのです。」
禎輔は呆気《あっけ》にとられてぼんやり眼を見張ったが、やがて機械的に立上って云った。
「つまらない嘘を云ったものだね。……だが、僕も実は碌に食事をしなかったのだ。」
彼は冷たくなった料理を退けて、新らしく料理を註文した。勿論葡萄酒も更に一瓶持って来さした。二人は変に黙り込んで食事をした。食うよりも飲む方が多かった。
「君、今晩は酔っ払って構わないから、沢山やり給い。」
そんなことを云いながら禎輔は、急に昌作の眼の中を覗き込んだ。
「然し、思切って恋をするのもいいかも知れない。恋は若い者の特権だと誰かが云っていた。……だが、あの女のことはなるべく早く達子へすっかり打明け給い。早く打明けなければいけないよ。」
何故? と問い返そうと昌作は思ったが、口を開かない前にその思いが消えてしまった。彼は早く一人きりになりたかった。一人きりになって考えたかった。何を考えていいか分らなかったが、頭の中に雑多な幻影が立ち罩めて、それが酔のために、非常に眼まぐるしく回転して、自分を駆り立てるがようだった。彼はむやみと葡萄酒を飲んだ。熱《ほて》った額に瓦斯煖炉の火がかっときた。そして頭が麻痺していった。本当に酔ってしまった。禎輔も可なり酔っていた。話は当面の事柄を離れて、一般的な問題に及んでいった。その問題で二人は論じ合った。――昌作の頭には、自分が次のようなことを云ったという記憶しか残らなかった。
――自分は盛岡で、フランス人の牧師に一年ばかり私淑していた。そしてその牧師から、自分が本当にクリスチャンにはなれないということを、明かに指摘された。「イエス彼に曰《い》いけるは主たる爾の神を試むべからずと録《しる》されたり。」けれども自分は、神を試みてからでなければ神を信じられなかった。
「誠に実《まこと》に爾曹《なんじら》に告げん一粒の麦もし地に落ちて死なずば唯一つにて存《あ》らんもし死なば多くの実を結ぶべし。」けれど自分は、自分自身のことしか考えていなかった。「爾曹もし瞽《めしい》ならば罪なかるべし然《さ》れど今われら見ゆと言いしに因りて爾曹の罪は存《のこ》れり。」けれど自分は、そういう罪を負ったパリサイ人になら甘んじてなりたかった。そして今でも甘んじてなりたいと思っている。……自分は人生の落伍者であり、人生に対する信念を失ってはいるが、実はその信念を衷心から得たい。そしてそれを得ることは、先ず自分自身に対する信念を得てからでなければ出来ないように思われる。自分自身をつっ立たせることが第一である……。
六
昌作は、夜中に、唸り声を出して眼を開いた、そしてまたうとうととした。そんなことを何度か繰返した。朝の九時頃にまた、自分の唸り声にはっと我に返ると、此度は本当に眼を覚してしまった。
何のために唸り声を出したか、それは彼自身にも分らなかった。或る切端つまった息苦しい考え――どういう考えだかは彼も覚えていない――のためだったか、或は葡萄酒の酔のためだったか、否恐らく両方だったろう。頭の中がひどくこんぐらかって、そして脳の表皮が石のように堅くなって、そして恐ろしく頭痛がしていた。
彼は仕方なしに、顔を渋めて起き上った。冷たい水を頭にぶっかけておいて、かたばかりの朝食の箸を取り、丁寧に髯を剃り、乾いた頭髪へ丁寧に櫛を入れ、それから、やって来た猫を膝に抱きながら、炬燵の中に蹲って、ぼんやり考え込んだ。室の中の空気が妙に底寒くて、戸
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