になって、冷たいと云えるほどにじっと動かなかった。そしてふいに、卓の上につっ伏して身体中を震わした。
昌作は息をつめていたが、ほっと吐息をすると共に、一時にあらゆる気分が弛んでしまった。彼は云った。
「君は僕の心を知っていたじゃないか。」
聞えたのか聞えないのか、やはり肩を震わしてばかりいる彼女の姿を、彼はじっと見やりながら、一語々々に力を入れて、出来るだけ簡単にという気持で云い続けた。
「僕の心を知っていて、それで……。然し僕は君を咎めはしない。君はそれほど真直なんだから。……けれど、少くとも僕のことを誤解しないでくれ給え。あの……何とか云う会社員……僕は片山さんから聞いたのだ……あんなあやふやなんじゃなかったんだ。僕には君が必要だったんだ。九州行きの問題が起ってから……その後で……気付いたんだが、僕に必要なのは、仕事でも、また、何をやるかっていう方針でも、そんなものじゃなかった。君ばかりだった。僕は自分の生活を立て直す心棒に、君が必要だった。こんなのは、本当の愛し方じゃないかも知れないが、然し、君がなければ僕の世界は真暗になってしまうんだった。友達……そんなではない……君の全部がほしかったのだ。君は愛する気になるのが悪いと云ったけれど、愛せずにはいられなかったんだ。然しもう……。」
彼は終りまで云えなかった。彼にとっては、もう凡てが言葉通りに……であった[#「であった」に傍点]という感じだった。まだ何かを待ち望んではいたけれど、それは全く空想に過ぎないことを、彼自らもよく知っていた。……すると突然、沢子は顔を挙げた。
「私にも分っていたけれど……他に仕様がなかったんですもの……宮原さんが……もし宮原さんがなかったら、どうなるか自分にもよくは……。」
彼女は息苦しそうに顔を歪めていた。
「宮原さんがなかったら……。」と昌作は繰返した。
「自分でも分らないの。」
その時、彼女の引歪めた顔と、白々とした冷たい額と、遠くを見つめた惑わしい眼付とを、昌作は絶望の気持で見ながら、頭の中に怪しい閃きが起った。宮原が居なかったら? ……彼は自分で驚いて飛び上った。沢子も何かに喫驚したように立上った。そして彼を恐ろしい勢で見つめた。彼は眼がくらくらとしてきた。また椅子に身を落した。
そのまま二人は黙り込んでしまった。やがて沢子も腰を下して、煖炉の火を見入った。その冷たい彫像のような顔を火先がちらちら輝らしてるのを、昌作はじろりと見やっただけで、再び視線を火の方へ落した。
そして二人は、黙り込んだまま、夜通しでも動かなかったかも知れない。けれど、それから十四五分たった頃、階段に二三の人の足音がした。昌作は自分でも不思議なほど喫驚して、狼狽して、俄に立上って、卓子の上にある外套と帽子とを取った。そして、勘定を払うのさえ忘れて逃げ出した。
沢子は機械的に立上って、其処に釘付にされたようになって、彼の後ろから云った。
「佐伯さん、また明日にでも来て下さらない? 私、まだ云うことがあるから。」
「来るよ。」
そう彼は答えたが、自分にも言葉の意味が分っていなかった。そして彼は階段の上部で、三人の客の側を、顔をそむけて駈けるように通りぬけた。
薄く霧がかけていて、それでいながら妙に空気が透き通ったように思える、静かな寒い晩だった。昌作は夢遊病者のように、長い間歩き廻った。彼は薄暗い通りを選んで歩いた。人に出逢うと、何かを恐れるもののように顔を外向けた。古道具屋などの店先に、古い刃物類があるのを見ると、一寸立止ったが、またすたすたと歩き出した。そして、初め彼は宮原俊彦の家と反対の方へ行くつもりだったが、途々もそうするつもりだったが、いつのまにか俊彦の家のある町まで来てしまった。
実は、彼が沢子と向い合って、「宮原さんがいなかったら……。」という件《くだり》の会話を交して、彼女の惑わしい眼付を見た瞬間、彼の頭はまるで夢の中でのように迅速な働きをしたのだった。最初に、もう到底沢子は自分のものではない、如何なる事情の変化があろうとも、彼女の心は自分の有にはならない、ということを彼は知った。次に、自分の生活が暗闇になって、もう何にも拠り所がなく、再び立て直ることがない、ということを彼は感じた。次に、もし宮原俊彦さえなかったら……ということ――沢子の「ない」という言葉を「存在しない」という言葉に変えた意味、それが、暗い絶望の底から、一条の怪しい光となって、彼の頭にさしてきた。そしてこの最後のことが、彼の胸深くに根を張ったのだった。それが、また偶然の事情によって助けられた。彼はこれまで宮原俊彦の住所を知らなかった。所がその晩、沢子へ宛てた葉書を表までもよく見調べてるうちに、そこに書かれてる町名――番地は記してなかった――が、いつしか彼の頭に残った
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