俊彦に、沢子へ恋してる昌作が、沢子の紹介によって逢うということは、何としても意外だった。然し昌作は、自分自身をもてあつかって、半ば自棄的な気持に在った。何か事変ったものがあれば、尋常でないものがあれば、それへすぐに縋りついてゆき易かった。と云ってもそれは、好奇心からではなかった。否彼には好奇心は最も欠けていた。ただ何かしら、心に或る驚異を与えてくれるもの、情意を或る方向へ向けさしてくれるもの、云い換えれば、一定の視点を与えてくれるもの、それを欲しがっていたのである。そして彼は、変な風に落ちかかってきた宮原俊彦に逢う機会を、奇蹟をでも待つような気で待ちわびた。宮原俊彦に逢うことが、もしかしたら、沢子が云うように、自分のためにいいかも知れない。少くとも、沢子の以前の(?)……恋人に逢うことは、途方にくれてる自分に何物かを与えてくれるかも知れない。……
昌作は出来る限り家の中に閉じ籠った。宮原俊彦に逢うまでは、誰にも逢うまいと心をきめた。片山夫妻へは四五日の猶予を約束していたけれど、どうせ今までぐずぐずしていた以上は、もし二三日後れたとて構うものかと思った。
二三日か一週間外に出ないで待っていてくれ、という沢子の馬鹿げた命令を思い出して、昌作は半ば泣くような微笑を浮べながら、その命令を守り初めた。そして彼の所謂、猫と一緒の「猫の生活」が、幾日か続いた。
それほどの寒さでもないのに、八畳の真中に炬燵を拵えて、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]の所までもぐり込んだ。胸に抱いてる猫の喉を鳴らす声が低くなってくると、彼の意識もぼやけてきた。夢をでもみるような気で室の中を眺めた。窓近くの机や本箱のあたりに、彼の生活の断片が雑居していた。友人の世話で引受けてる陸軍省の安価な飜訳……徒らに書き散らしてる詩や雑文の原稿……盛岡で私淑していたフランス人の牧師から貰った聖書《バイブル》……ファーブルやダーウィンなどの著書……重にロシアの小説の飜訳書……和装の古ぼけた平家物語……それからいろんなこまこましたもの。昌作はそれらをぼんやり眺めたが、いつしか眼が茫としてきて、うとうととしかけた。なにか慴えたようにはっと眼を開いて、またうとうととした午後の二時頃から、縁側の障子に日が射して来た。炬燵の中からむくむくと猫が起き出して、一寸鼻の先を掛布団の端から覗かしたが、いきなり室の真中に
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