異常な「明日」を却って否定して、尋常な「明日」を肯定することが、屡々である。絶壁の上に立っていると、そこから墜落はしないことを知っていながら、墜落しはすまいかという疑懼のために後に引戻されることがある。これは日常性の復讐だ。この復讐は、強力であると共に誘惑的でさえある。日常性の復讐に敢然と対抗し得るだけの覚悟が必要であろう。
 最初に述べた或る男は、其後、私に次のようなことを云った。――あの当時僕は、所謂背水の陣を布いて生きていた。この背水の陣というものは、まかり間違えば、凡てを投り出して自殺するというような、そんななまやさしいものではない。異常な「明日」を責任を以て肯定するという、やさしいようで実は非常に困難な覚悟の肚をすえていたのだ。



底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは
前へ 次へ
全9ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング