霧の中
――「正夫の世界」――
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)形態《えたい》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23]
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 南正夫は、もう何もすることがなかった。無理を云って山の避暑地に九月半ばまで居残ったが、いずれは東京の家に、そして学校に、戻って行かなければならないのだ。なんだか変につまらない。ただ一人で、丘の斜面の草原の上に寝ころんでぼんやりしていると、いろいろなことが頭に浮んでくる。大空が、目のまわるほど深くて青い。白い雲が流れる。大気がひえびえとしている。遠くの山々が、ひっそりと、薄っペらで、紙細工のようだ。どこかで虫が鳴いている……。
 ふいに、耳のすぐそばで、然し遠くから来るような調子で、正夫を呼ぶ声がする。ほう、「彼奴」だ。久しぶりにひょっこり出て来たのだ。小さな、すばしこい、怪しげな、とぼけた、おかしな奴で、人に話したって本当にされそうもない。名前もない奴なので、正夫はただチビと呼んでいる。もう馴れっこになっているし、一種の親しみさえ持っているので、別に驚きはしない。それに丁度、神話のことを考えていたところだ。神々や巨人や怪物や、いろんな妖精。チビだって、謂わば、神話の中のような者だ。
「久しぶりだね。」とチビは云った。
「うん。」と正夫は答えた。
「何をしてるんだい。」
「何にもしてやしないよ。」
「じゃあ、退屈だろう。」
「退屈だから、何にもしていないんだよ。」
「何にもしないから、退屈するんだ。」
「ちがうよ。退屈だから何にもしないのさ。」
「同じじゃないか。」
「ちがうよ。」
 チビは耳をかいた。困った時の癖だ。そして暫く黙っていたが、正夫の目の中を覗きこんできた。
「じゃあ、何を考えていたんだい。」
「いろんなことだよ。」
「どんなこと?」
「神だの、巨人だの、人魚だの……。」
「ああ、大昔の話か。あんなこと、みんな嘘っぱちだろう。」
「嘘じゃないよ。」
「本当のことだと思ってるのか。」
「本当でもないさ。」
「そんなら嘘じゃないか。」
「本当でも嘘でも、どっちでもないんだ。」
「では何だい。」
「何だか知らないが、本当でも嘘でも、どっちでもないようなものが、あるんだよ。君には分らないだけだ。」
 チビはまた耳をかいた。
「今だってあるよ。」
「何が?」
「そんなことが。こないだも……。」
 すぐ向うの丘の、裾を廻ってる街道でのことだった。夕方近くで、うすく靄がたれこめてる中に、まだ明るみが浮き上ってる、へんに佗びしい頃だった。白い街道を、一台のトラックが走って来た。初めは小さく、兜虫のようにのろのろと、やがて大きくなり、早くなって、風のようにさっと通りすぎ、同時にごーっと音がし、白い埃をまきあげた。その時、麦か米か粉かの大きな袋が堆くつんである、その上から、人間が一つ、軽くふわりところがり落ち、それがこんどは重々しく地面にはねあがり、そしてぐったりとなった。トラックは走り去り、落ちた人間だけがそこに長くのびている。
 あたりには誰もいなかった。何の声もなかった。やがてどこからか、子供が二三人出て来た。大人も出てきた。地面からわき出たようだ。地面からわきだして、そこに集ってきた。そしてまるく立並んだ。正夫もその中にはいった。そこに落し忘れられてるのは、襯衣の上に腹掛をし、地下足袋をはいた男で、仰向けに、手足を伸し、眼をとじ、口をあけて、眠ってるようだった。埃にまみれてるだけで、血も見えないし、怪我してるらしくもなかった。まわりにはもう、十人あまりの人が集っていた。
「それがみんな、どこからか、地面からわき出してきたんだ。」
「君もそうか。」
「僕はちがうさ。初めから見ていたんだから。」
「ほう……。まあなんだね、虫が死んだのが落ちてると、どこからか蟻が集ってくるようなもんだね。」
「その男はまだ死んでやしなかったんだ。」
 まわりの人々は蟻のようにがやがや騒いで、その中の一人が、そっと男にさわってみ、抱き起そうとした。男はただぐったりしていて、また地面に長くなった。日焼けした顔が、なお真赤になっていた。ふーっと一つ大きな息をすると、またしんしんと静まってしまう。そして時々、だらりとのばした手先を、ぎゅーっと握りしめて、手首を痙攣的に起しかけるが、まただらりと指を開いてしまう。そんなことを何度もやった。
 その手が、正夫の心の中で、もう一つの手と重なりあっている。もう一つの手は、母の手だ。――母は病院にはいっていたが、或る晩、正夫は慌しくその病室につれてゆかれた。扉をはいると、真正面が壁で、そこを左にまがる
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