と、ベッドがあった。電燈に覆いがしてあるので、水の中のような明るみだった。母は昏々と眠っている。息をしているかどうかも分らない。右手を布団の外に敷布の上になげ出していたが、その細そりした透いて見えるような手先が、ひどく美しく可愛かった。その手だけが、母の臨終についてのはっきりした印象だ。親指を掌の中に、そして他の指先も少し縮ませて、その手先だけを、手首のところからひょいと上げてとんと落し、丁度手の甲で敷布の上をたたくように、とんとんと二度ずつ、間をおいて動かしていた。何か合図をしてるかのようでもあれば、だるいのをごまかしてるかのようでもあった……。
正夫は心の中で、二つの手の動きのことを考えるのである。仰向にねそべって、両手を投げ出し、掌の方を上にして、すっかり力をぬいてしまう。そして時々、ぎゅーっと指を握りしめ、何かの努力か痙攣のように、じりじり手先をもちあげ、次にばたりとまた投げだすのだ。或は、指先を心持ちまげて自然にしておいて、時々、手の甲でとんとんと、何かの合図かだるい戯れかのように、手首を動かしてみるのだ。前の場合には、手先が驚くほど大きく重く、後の場合には、手先が驚くほど小さく軽い。
正夫は云った。
「僕は、死ぬ時は、お母さんのように手を動かすつもりだ。」
「そんなに勝手になるものか。」
「なるさ、自分のことだもの。」
「だが、おかしいね、君が死ぬことなんか考えるのは。」
「死ぬことじゃないんだ、死ぬ時のことだよ。」
「死ぬ時……。」
「そうだよ、いろいろな時があるだろう、死ぬ時、寝る時、御馳走をたべる時、笑う時、泣く時……。」
「ああ、その時か……。」
チビはそのまま黙りこんでしまった。彼が話の途中で黙りこむのは、何かにぶつかって当惑した証拠だ。――やがて、彼はぽつりと云った。
「人間て、不思議だなあ。ふだんは、何やかやつまらないことを、ひとに相談するくせに、死ぬ時になると、一人で黙ってるんだからなあ。」
正夫も、別な意味でではあるが、同じようなことを考えていた。彼は昂然と云い返した。
「それでいいじゃないか。」
最近の父の死のことを考えていたのである。
東京から伊豆大島へ通う船の上から、夜中に、正夫の父は姿を消してしまった。うち晴れた穏かな夜で、月が綺麗だった。南さんは酒を飲んで、だいぶ酔っていた。それだけのこときり何にも分らず、小さなスーツケース一つが残っていた。家を出る時南さんは、大島へ一二泊旅をしてくる、とだけ云い置いて、平素と変りはなかった。――過失死か自殺か、不明だった。新聞紙上には大体過失と報ぜられた。
万一の希望も空しく終り、三十五日目に一般の告別式が行われることとなり、その前夜、親しい者だけで、改めて仏事とも通夜ともつかない集りがあった。
故人の引伸し写真と位牌とを中心に、小さな気持よい祭壇が拵えてあった。特別の遺愛の品とてないので、いろんな身辺の品が一纒めにして置かれていた。万年筆、鉛筆、紙切ナイフ、補助の眼鏡、古い懐中時計、ネクタイピン、原稿紙の上にのってた形態《えたい》の知れない鉄塊など、ごくありふれたがらくたが、遺骨の代りになったのである。そして美しい新鮮な花が祭壇を殆んど埋めつくし、その色彩と芳香は蝋燭の火や線香の煙を圧していた。故人が愛酒家だっただけに、集った者のうちにもそれが多く、一座は何となく宴席の趣きを呈した。若い人々の間では、社会や道徳や文化や芸術などの問題について元気な議論が交された。
正夫も遅くまで起きていた。家中のことを仕切ってる中根のおばさんは、その晩、へんに正夫を自由にさしておいてくれた。故人の旧友で、語学教師であり飜訳家である木原さんが、正夫を一同に一人一人紹介してくれた。正夫は果物をたべ、サンドウィッチをつまみ、酒も一二杯なめた。そしてもう十二時近い頃だったろうか、階下の奥の室の縁側で、真暗な庭の方をぼんやり眺めていると、木原さんがやって来た。木原さんは正夫の肩に手をかけながら、故人のことを話しだした。故人は近年、あらゆる意味で宙に浮いていたのだそうである。生活の意義を求めて得ず、道徳の根拠を求めて得ず、女性の魂を求めて得ず、而もそれらの追求は、一種の漠然たる恋愛的観望の形となり、その観望がいつまでも満されないために、人間や社会に対する蔑視が起り、蔑視が傲慢なものとなるに随って、彼自身は宙に浮いてしまったのだそうである。そんなこと、正夫にはよく分らなかったが、木原さんはしんみりと話してきかして、それから更に声をおとして、だから、精神が宙に浮いていたから、酒に酔ってもいたろうけれど、船から海に落ちるようなことになったのである……。その声があまり静かで、宙に漂っているようだったので、正夫はうっかり、率直に独語した、いいえ、お父さんは自分で海に飛び
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