こんだんだ!
ちょっと、しいんとした。それから突然、大きな手が痙攣的に正夫の肩をつかみ、怒った声で、ばか、ばかなことを云うな! 木原さんは怒りながら泣いていた。正夫は呆気にとられた。父が自殺したって、それがなぜいけないんだ。海に飛びこんで消えてしまったのは、何かしら清らかで美しい。写真と位牌といろんながらくたと、そして花ばかりの、あの祭壇は、人の気持ちをすっきりさせるじゃないか。悲しいのは、父がいなくなったということだけだ。それと自殺とは別なことだ。そう思ってる正夫に、木原さんはなお、とぎれとぎれに云ってきかせるのだった。そんなことを考えちゃいけない、お父さんは誤って海に落ちたんだ……。そしてしまいに、正夫を引きよせ、抱きしめて、涙を流していた。正夫の頭にかかる息には、酒の匂いがしていた。木原さんまで酔っ払っている、どうしてみな酔っ払うんだろう。お父さんはよく酔っ払っていた。そんなことが、正夫には淋しかった。そしてしつこく黙りこんでしまったのである……。
「まだ悲しいかい。」とチビは尋ねた。
「何が?」
「お父さんが死んだことさ。」
「死んだことは何でもないよ。ただ、お父さんがいないのは、淋しいなあ。」
「ほう、そんなもんかね。だが、あの時だって、君はちっとも泣かなかったじゃないか。」
「あんな時には泣かないさ。」
「じゃあどんな時に泣くんだい。」
「どんな時って……。」
「泣いたことなんかないんだろう。」
「あまりない……いやあるよ、あったよ。」
「いつだい。」
「ずっと前だが……。」
まだ小さい頃だった。正夫は母に連れられて、田舎の家に行ったのである。まん円い眼鏡をかけてるお祖父さんがいた。広い大きな屋敷で、池があり、竹籔があり、大木が立並んでいた。蜜柑の木がたくさんあった。いろいろな虫がいた。美しい蜘蛛が網を張っていた。蛞蝓や蚯蚓のようなぬるぬるしたものは、ぞっとするほど嫌だったが、蜥蜴の綺麗な色には長く見とれたし、蛇には妙にひきつけられた。大きな蛇がいるという話だった。米倉の主で、鼠をとって食べてるそうだった。
或る時、夏蜜柑の木の根本に、大きな蛇がとぐろを巻いていた。正夫の手首ほどの大きさの青大将で、それがきれいに輪をまいて、真中から鎌首をもたげ、細長い鋭い舌をちろちろさしている。そっと寄っていくと、のろのろはい出して、びっくりするほど長くなり、見返りもせず、でも急ぎもせず、[#「、」は底本では「、、」]逃げていく。先廻りして前に出ると、するりと横にそれて、やはり見返りもせずに、のろのろはってゆく……。ひとをばかにしてるんだ。正夫は腹をたてて、いきなり走りよって、その首のあたりを掴んだ。ひやりとした。次に、肩と腰のあたりがひやりとした。蛇がのたくったのだろう。正夫はもう夢中で、手に力をこめて、家の方にやっていった。蛇は頭で正夫の手にからみつき、胴から下はだらりと、尾の方は地面にひきずっている。正夫はいつしか大きい声でわあわあ泣いていた。泣きながら、蛇をひきずって、家の中にはいっていった。怖ろしいのか、嬉しいのか、一生懸命なのか、とにかく無我夢中で、わあわあ泣いてるのだった……。
「ほんとに泣いちゃったよ。」
「そんな泣き方ってあるかい。」
「なぜだい。」
「そんなの、高いとこから落っこちる時、わあっと声をたてるようなもんじゃないか。」
「ちがうよ。」
「喧嘩して、相手を押えつけて、殴りつけながら、わあわあ声をたてるようなもんじゃないか。」
「ちがうよ。」
「そうかなあ。僕は一度も泣いたことなんかないから、分らないが……。」
「君はばかだからさ。」
「どうして?」
「ばかな奴は泣かないよ。」
「豪い奴が泣かないのさ。」
「豪い奴だって泣くよ。泣かないのは、ばかかひねこびれてる奴だけだ。」
チビは耳をかいて、目をぱちくりやった。正夫は得意になった。
「誰だって泣くさ。ただ、めったに本当に泣かないだけだ。君が云うように、涙ぐんでくよくよするのなら、女の児だって婆さんだって、しじゅうやってるよ。」
「しじゅうにこにこしてるよ。」
「そしてへんな時に、思いがけない時に、何でもない時に、しくしく泣きだすんだ。そしてひどいのになると……。」
正夫の東京の家の近くに、境内がのんびりと広い神社があって、その仁王門にたくさんの鳩が巣くっていた。よく人に馴れていて、掌の中の豆までつっつくのだった。幼児を背負った娘や子供の手を引いた婆さんなどが、そこの広場に幾人も見えた。日曜などには豆売りの女まで出ていた。
その人たちの中に、わりに上品に見える老婆が一人いた。誰も連れず、一人きりで、いつも豆を持っていて、それを長い間かかって鳩にやった。そしてきょとんとして、あたりを見廻したり、何か低く呟いたり、また石の腰掛に坐りこんで、頭を垂
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