刻みこまれた。両方とも画かれたものに違いなかった。その他のところは、眼も鼻も全体の顔立も正夫は覚えていない。――その三島さんの伯父さんとかがひどく憤慨してるのだと、山根のおばさんが南さんに話していた。ほんとにそんな挨拶をなすったのですか、というのだった。――私は彼女に、そのつど、十円とか二十円とか渡しておいた。こんどは何々を買おうといって、いつも喜んで貰っていったのだ。私はカフェーの女給なんかとそんなことがあっても、一文も出したことはないのだ。彼女にだけは金を払った。それで文句があるのですか、よく考えて貰いたい。――そんな挨拶をなすったのですかと、山根さんは穏かに聞いてるのだった。――その三島さんの伯父さんが、南さんと二階の室で一時間ばかり対談して、静に帰っていった。南さんは普通の訪問客を送り出す時と同様、平然としてそして鄭重だった。山根さんも取り澄していた。――其後、木原さんが来た時、山根さんはひどく怒ったらしかった。南さんは相当高利の金を千円かりて、それを三島さんの伯父さんに贈り、木原さんがその間にたって万事まるく納めたというのだ。これはゆすられたのではない、相手方に対する極度の蔑視の表示だ、というような南さんの気持を、木原さんはくどくどと説明してきかしたようだったが、山根さんは一向ききいれず、しまいには一切口を噤んでしまった。口を噤むのは憤慨のしるしだった。
 へんにこんがらかったその事件は、家の中を冷たくしてしまった。然しも一つ南さん自身を冷たくさしたような事件があった。当時、南さんの知人や主として後輩の人などで、一種のグループが出来ていた。自由主義的な集りで、あらゆる意味での既成型、頭脳の習慣的な廻転を脱却して、本来の野性に立戻るという主張だったが、実際に於てはただ消極的な批判にのみ終っていて、何等の活動もしてはいなかった。そのうちの一人が、左翼運動に関係があるとかで拘引された。その救助運動について、南さんは公言した。――放っておくがいいんだ。個人主義攻撃の名によって、安価なセンチメンタリズムに左袒してはいけない。――それから次に、南さんは奉職先の学校当局から注意を受けた時、ああいうグループは一種の精神的娯楽機関で、酒の飲み仲間と同じものだと云った。――そういうことが人々に伝わって、南さんは二三の者から詰問されたらしいが、南さんは凡てを肯定して、そして、冷かな傲然たる態度を取っていた。
 然しこの、三島さんの話もグループの話も、甚だ曖昧な漠然としたもので、正夫にもよくは分っていなかった。だがその頃、南さんはよく酒をのみ歩き、相当に放埓な生活をし、勉強などは殆んどせず、家にいる時は、寝ころんで何か考えてるかと思うと、いつのまにかうとうと眠ってるのだった。昼も夜もよく眠った。起きてる時は、何か落着きがなく、苛ら苛らして、二階の書斎に上ったり、庭におりたり、そして膝頭ががくがくし、手先が震え、眼付が沈んでいた。夜遅く外を歩き廻ることがよくあった。
 或る夜、正夫はなんだか不安な気持で眼を覚した。何かの気配が自分の上におっかぶさってくるようだった。ぼんやり薄目をあいてみると、二燭光の電燈で、室の中が深々とぼやけている。その中に、大きな姿が自分の側にあった。その威圧に、身動きも出来なかったが、先方も不動のままだった。きちっと合わせた着物の襟、角ばった肩、斜にさし出されてる首、そして見覚えのある蒼ざめた顔が、顔全体が、こちらを覗きこんでいる。下から見上げると、接の骨と鼻の穴がいやに大きく、髪の毛が後ろに長々となびいてるような感じだ。正夫は大きく眼を開いて、じっと眺めた。眼がさめたの? と静かに囁く声がして、全体の姿がゆらりと動いた。静に眠るんだよ、とまた静かな声がして、父は頬の肉一つ動かさず、そのまま立上って、すーと出て行った。
 正夫は半身を起こした。それから、向うに眠ってる山根さんの方に一瞥をなげ、そっと起上って、室から出て行った。父は茶の間に坐っていた。正夫の姿を見て、驚きもせず、やさしく微笑んだ。とてもいい晩だ、霧が一面にかけてるよ、といって立上った。正夫は着物をきてきた。父は玄関に待っていた。二人で外に出た。
 十メートル先は見えないほどの、東京には珍らしい濃霧だった。まばらな街燈の光が、幾筋もの縞になって浮び、屋根の先や木の枝が宙にかかり、其他は一面に仄白い渦巻きだった。眼や鼻や唇にまで霧はしみこんできた。暫く黙って歩いているうち、南さんはふと足をとめて、ほう……と眺め入った。そこに、坂塀から檜葉の枝がさし出ていた。こんなのを見たことがあるかい、と南さんは正夫を顧みていった。すかして見ると、その檜葉の葉先に、一面に露がたまっていた。それが澄みきって、氷のようで、きらきら光っていた。雨の雫だってそんなにたくさんたまるも
前へ 次へ
全11ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング