奥さんが待っていらしたんですね、と相手を促して座を立たしてしまった。それから一人きりになって、へんに軽蔑的な嘲笑的な笑いを、何に対してだか、口元に漂わせながら、また一本飲んで、そこを出て行った。大して酔ってもいないような様子だったが、足がふらついていた。ふらつくというよりも、膝頭に力がないらしかった。街路を車道の方におりて、真直に歩いてゆく。その一歩一歩が、へんに弾力性を失っていて、今にも膝ががくりと折れてそこに坐ってしまいそうだった。重病の前や後に人はそういう歩き方をすることがある……。
「でも、病気じゃあなかったんだ。」と正夫は云った。
「それほど酔ってたんでもないよ。」
「力がぬけていたんだろう。」
「だからおかしいのさ。ひどく勉強したとか、夜眠れなかったとか、そんなんなら分るけれど……そして病気でもなかったんだとすると……。」
正夫は黙っていた。
「僕もいろいろ忠告してやったが、よく分らなかったようだ。」
「君の忠告なんか駄目さ。」
「なぜだい。」
「お父さんは何かほしかったんだと思うよ。」
「何がさ。」
「それが、僕にもよく分らないけれど……。」
「どうせつまらないものだろう。」
「だけど、へんなことがあるよ。」
「また、大昔の話か、お化の話かい。」
「ちがう……本当にあったことだよ。」
学校から、正夫は遠足に行ったことがある。同級の者だけそろって、高尾山に登った。山の上には、いろんな物を売ってるなかに、竹細工の笛がたくさんあった。たいていの者がそれを買った。神社に詣って、裏山で弁当をたべて、自由に遊べる時間になると、あちらでもこちらでも、笛を吹きならした。木立の中にはいっていって、小鳥を呼びよせるんだと、夢中になってる者たちもあった。その一人が、足をふみ外して、急な崖からころがり落ちた。ちょっとした木の茂みに隠されてる、穽みたいな崖だった。その中にすぽっと落ちこんだので、近くの者たちはびっくりした。それから騒ぎになった。先生も飛んできた。幸に、崖はそう高くなかった。廻り途をして、崖下に出ると、落ちた生徒はそこに倒れたまま、きょとんとしている。肱と膝とを少し擦りむいただけだ。おかしいのは、右手に何か握りしめていて、助け起こされ、介抱され、我に返って泣きだしても、なお右手を握りしめている。漸くその手を開かしてみると、笛ではなく、小石だった。どこで拾ったのか、恐らく転がり落ちる間際にだったろうが、それを一生懸命に握りしめてるのである。手を開かせてそれを捨てさせた時、彼は急にわっと激しく泣きだした。――それがあまりおかしかったので、石ころという綽名がついた。が当人は、石ころと云われると、ひどく怒って口も利かなかった。
「それがどうしたんだい。」とチビは尋ねた。
「それきりさ。」
「なあんだ、面白くもない。」
「でもねえ、夢のなかなんかで、高いところから落ちることがあるだろう。宙をすーっと落ちていく。とても恐《こわ》いんだ。あんな時、石ころでも棒ぎれでもいいから、手にしっかり握りしめていたら、そんなに恐くないかも知れないよ。」
「どうかなあ。」
「君には分らないよ。」
「僕は夢なんかみないんだ。」
「だから、よく分らないんだ。」
チビは耳をかいた。正夫はやがて云った。
「本当は、石ころなんか握りしめるのは、極りわるいことさ。僕だったら、両手をひろげたまま落ちていくよ。」
「どっちだって同じさ。」
「ちがうよ。君に分らないだけだ。お父さんのことだって、君には分ってやしない。お父さんは、力がぬけてたけれど、それでも、海に飛びこむだけの力はあったんだ。両手をひろげたまま飛びこんだと思うよ。」
「そんなこと、豪かあないよ。」
「豪くはないさ。」
「じゃあ何だい。」
正夫は返事をしなかった。チビも口を噤んだ。二人とも妙に淋しいものにぶっつかったのである。
南さんの歩き方が少し怪しいのは、単に酔ってる時ばかりではなかった。ふだんでもどうかすると、膝の関節に弾力がなく、軽微な中風患者みたいに、ぎくしゃくした歩きようをした。それから、例えば茶碗とか箸とかを取る時、少し見当をちがえて、手がわきにそれることもあった。土瓶やコップを引っくり返すことも多かった。身体の平衡を取り失ってるらしかった。
然し南さん自身は、何か沈欝に考えこんだ様子で、そして泰然と落着きはらっていた。三島さんの伯父さんとかいう人が来た時なんか、南さんは愛想よくそれを二階に招じたのだった。――三島さんという若い女の人は、正夫も知っていた。いつか家に来た時、大理石と青い玻璃とで出来てる大きなインクスタンドを貰ったことがあった。背の低い中肉の女で、紫色と白線とが目立つ着物をきていた。眉がきれいに細長く弧をなしているのと、唇が薄くくっきりと際立ってるのとが、正夫の頭に
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