のではない。霧がそこに水滴となって一面にくっついたのであろう。枝をゆすると、重々しくばらばら散る。よく見せてあげよう、と南さんはいって、正夫を胸に抱きあげた。正夫は眺め入り、それから枝を引張った。二人とも雫を頭から浴びた。そして笑った。また次の檜葉のところへ行った。正夫は枝を引張った。二人は雫を頭から浴びて笑った。
「あの晩のこと、なんだかへんだよ。」と正夫は云った。
「どうしてだい。」とチビは尋ねた。
「あんなに遅く、お父さんと一緒に外を歩いて、雫をかぶって遊んだのが、ふしぎだよ。あの頃、お父さんは僕のことをちっともかまってくれなかったし、僕もお父さんがなんだかきたならしかったんだもの。」
「きたならしいって?」
「いろんないやな匂いがしみついてるような気がしたんだ。」
「そうかも知れないさ。」
「そうじゃないよ。ただそんな気がしたんだ。」
「だから、露の雫をあびせて、清めてやったってわけかい。」
「そんなことをいう奴は、ばかだよ。」
 チビは耳をかいて黙った。それからさも内緒らしく云った。
「君は知らないだろうが、あの晩、家に帰って、床にはいってから、お父さんは泣いていたよ。」
「うそだよ。僕は床にはいってから、うれしかった。」
「お父さんの方は、ほんとに泣いてたよ。」
「…………」
「眠ってからも、涙が眼から出ていたよ。」
「どっちだって同じことだ。」
「おかしいね、君はいつもちがうちがうっていうくせに、それだけが同じかい。」
「ちがうものはちがう、同じものは同じだ。」
「当り前じゃないか。」
「そうだよ、だから、それでいいんだ。」
「まあいいや。とにかく、霧の晩てへんなもんだな。」
「あれから僕は、霧の晩はいつも外を歩くことにしている。こないだも……。」

 それは[#「 それは」は底本では「それは」]、晩ではなかった。然し山国の濃霧の日は、昼も晩と同じだった。なおよく云えば、永遠の夕方なのだ。温和な天気だったのが午後になって、霧が出てきて、それが刻々に濃くなり、深さも幅も分らない仄白い渦巻きとなった。正夫は外にとびだした。爪先上りに野原の中を、泳ぐように歩いていると、時々、森の一端が現われたり消えたりして、その向うには一層深い霧が淀んでいそうだった。正夫は森の方にやっていった。森はその辺みな闊葉樹で、その葉はただ濡れてるだけで、美しい露の玉はかかっていなか
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