ていたが、志村が通りかかると、手先で招き寄せ、太田夫人は立ってゆき、そのあとに志村は腰を下さざるを得なかった。
志村には、房代夫人は苦手なのである。彼女は須賀邸に集まってる婦人たちのうちでは恐らく一流の名門の出であり、主人は或る通信社の重役であって、彼女自身は世話好きだし、なかなか勢力があった。志村は嘗て彼女にたいへん世話になったことがある。ふとした恋愛関係が複雑にもつれてきて、訴訟沙汰にまでなりかけたのを、彼女の斡旋で無事に解消したのだった。それ以来、彼女にはへんに頭が上らないのだ。
「ただ今、あなたのお噂をしていたところなんですの。」と彼女は言った。
額の上に捲毛を縮らし、下頬に贅肉がぼってりしていて、小さな眼がちらちら光っていた。志村が煙草のケースを差出すと、彼女は器用に一本ぬき取った。
「あちらへ、広間の方へ、おいでになりませんか。」
「もうすこし、酔いをさましてからにしましょう。」
それでも、彼女の前には、紅茶とカクテルとが並んでおり、彼女はカクテル・グラスの方を取上げて、唇の横っちょですすった。
女中が通りかかると、彼女は志村へも、カクテルを持って来てくれるよう、しかも二杯、頼んだ。
煙草の煙ごしに、彼女は志村の顔をしげしげ眺めた。頬笑んでるのか怒ってるのか分らない表情だった。
「あなた、この頃、ずいぶんお盛んなようですわね。」
「どうしまして。すっかり悄気てるんですよ。」
志村は笑みを浮べた。
「お盛んなのは結構ですけれど、あまり、ひとをおからかいなすってはいけませんよ。」
志村は笑みを深めて、あの一件かと思っていると、果してその通りだった。
「フグの茶漬けとかを食べさしてくれる家があるそうですが、どこなんですの。」
「なあに、頼めばどこだって出来ますよ。」
「いいえ、あなたの御懇意な家……なんという家なんですの。」
志村はカクテルを飲んだ。
「わたくし、フグが大好きですから、ちょっと行ってみたくなりましたわ。なんという家が、教えて下さいません。お願いですのよ。」
「お願いだなんて……。」
庭のかなた、百日紅の白っぽい幹を交えて椿がこんもりと茂ってるのを背景に、大きな自然石が配置され、その石のたもとに、黄色い葉が僅か散り残ってる一群れの山吹があった。それに志村は眼をとめた。
「やまぶき、という家ですが……。」
「やまぶき、お菓子屋みたいな名前ですこと。」
笑いかけておいて、房代夫人は急に真面目になった。
「やまぶきだかなんだか存じませんが、わたくしが、その割烹旅館とやらへ、お伴しようではございませんか。それとも、わたくしのような肥っちょのお婆さんでは、いけませんかしら。」
志村は首をすくめた。
「分りましたよ。そう叱らないで下さい。」
房代夫人は片手を伸ばして、彼の手首を押えた。
「志村さん、すこし御冗談が過ぎますわよ。あなたの方は、冗談ですましていらしても、相手の方はそうは参りませんからね。みんな憤慨しておりますよ。中には、心の底のどこかで、ちょっと擽られたぐらいな気持ちになる者も、いないとは限りませんでしょうけれど、だいたいは、大袈裟に申せば、名誉を傷つけられたことになりますでしょう。そしてあなたの方は、不徳義な破廉恥なひとということになりますでしょう。その両方が重って、たいへん面倒なことが持ち上るかも知れません。ねえ、そうではございませんか。」
「分りましたよ。もうその話はやめましょう。いったい、あなたのお話は……。」
「え、わたくしの話が、どうなんですの。」
「あまりもっともすぎて、返答に困るというものです。」
「それでは、もっともでないことを申しましょうか。」
房代夫人はその小さな眼で笑った。
「わたくしが、みんなの犠牲になって、あなたのお伴をしようではございませんか。人中で、おおっぴらに、お約束致しましょう。フグの茶漬けとかを食べに、やまぶきとかいう割烹旅館へ、あなたと二人で、幾日の何時頃参りましょうと、公然とお約束致しましょう。そうしたら、ほんとに連れて行って下さいますか。」
「仕方ありません。是非そうしてくれと、あなたが仰言るんでしたら……。」
房代夫人はまた彼の手首を押えた。
「笑っていらっしゃいますね。実は、真面目に聞いて頂きたいことがございますのよ。申し上げようかどうしようかと、迷っていましたけれど、今日はよい機会ですから、思い切って申しましょう。ただ黙って、なんの弁解もせずに、聞いて下さいよ。」
「御意のままにします。俎上の鯉となりましょう。」
志村はそれまでに、三杯のカクテルを飲み干してしまった。房代夫人も唇の端っこでカクテルをなめた。それから、通りかかった女中に、また、カクテルを二杯たのんだ。女中の外に、通りかかる客人もあり、房代夫人に挨拶していった。二人
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