あり、シビ茶がある以上、フグ茶だってあってもいいさ。」
「勿論、あって悪いわけはない。食いに行こうか。」
志村はじっと武原の顔を見た。そしてまた歩き出した。
「男同士じゃ意味ないよ。」
武原はその言葉の意味が分らず、黙っていた。暫くして、志村はぽつりと言った。
「フグ茶だとか、割烹旅館とか、あんなものは、単に僕の意思表示の道具に過ぎないんだ。」
「へえー、大袈裟だね、意思表示とは。」
「君になら、打ち明けて言ってもいい。君が知ってる通り、僕はひどく酒を飲むし、むちゃくちゃに酔っ払うこともある。酔っ払った時のことは、たいてい忘れてるから、こっちは平気なものだ。どんなことをしようと、どんなことを言おうと、構やしない。然し、あとになって、ぽつりと何かを思い出すことがある。気障な言い方をすれば、忘却の海の水面上に出てる岩のようなものだ。それが、途方もないものだの、滑稽なものなら、まだいいが、たいへん気恥しいもののことがある。その気恥しいものを、それだけぽつりと思い出すと、とてもやりきれなくて、わーっと叫び声を立てたくなる。夜中にふと眼を覚して、わーっと叫びたくなることがある……。君にはそんな経験はないかね。」
「そりゃああるよ。酒飲みはたいていそうしたものだ。珍らしくもない。」
「ところが、その中で一番気恥しいのは、やはり男女関係のことだ。僕は商売女を相手に、ずいぶん道楽をした。然し、素人の女は敬遠してきた。ところが、どういうものか、年をとって性的行為にあまり魅力を感じなくなるにつれて、素人の女に対する敬遠の念が薄らいできた。酔っ払うと、つまらないことで、キスしたり、一緒に寝たりする。勿論、嫌いな女は別だ。嫌いでさえなければ、好きでもないのに、変なことになる場合が往々ある。そこで僕は、性的行為を極端に軽蔑するようになった。それは単に粘膜の感覚にすぎないとの、素朴な結論だ。そういう結論、軽蔑の念は、御婦人たちの前で観念的に言い出しても、誤解を招くばかりだから、別な方法を用ゆることにした。その方法というのが、フグ茶とか割烹旅館とか、あんなものになるんだ。」
「然し君、れっきとした御婦人たちを前にして、そんな意思表示なんか、する必要はないじゃないか。」
「必要はないさ。だが、僕は腹を立ててるんだ。女性というものに腹を立てるんだ。その腹癒せに、少しく毒づいてみたいだけさ。」
「すると、なにかばかな目に逢ったというんだね。男というものはそうしたもんだろう。いつもばかな目にばかり逢わされてる。それに腹を立てるなんか、ますますばかだね。」
「ああ大ばかさ。フグでも食いに行こうか。」
「どうせ行くなら、フグ茶にしよう。」
「そんなもの、ありゃあしないよ。それとも、フグの刺身を残しておいて、鯛茶をあつらえ、僕たちで、フグ茶の手調理としゃれてみるか。」
「よかろう。」と武原は答えた。
フグの茶漬けとか割烹旅館とかいう、志村の不穏当な「内緒話」は、男たちの間では、物好きな奴だとの苦笑を催させるぐらいなもので、大した反響は起さなかったが、女たちの間ではそうでなかった。
食物の話とスキャンダルとは、この種の有閑社交界では最大のトピックとなる。志村のことはひそひそと噂に上った。破廉恥な人だと言う者もあった。道化けた人だと言う者もあった。女性を侮辱する人だと言う者もあった。そしてさまざまに批評しながら、実は誰か、その旅館とやらに彼と二人で行った者があるのではなかろうかと、穿鑿の横目を使ってるのだった。
そういうことを、志村自身、よく知っていた。表面は敬遠されてるようで、実は少しも排斥されていないことを、知っていた。誰かが火遊びをしたのではあるまいかと考える、その底には、本人にも火遊びの要素があるのだ。ひそかな下心というか、隙間というか、そんなものがあるのだ。
だから、志村は、にこやかな様子で、内心は傲然と反り返って、彼女等の間に立ち交っていた。――須賀邸の、老夫人の誕生日をかねた、ティー・パーティーの日である。
ティー・パーティーといっても、男たちにとっては、むしろカクテル・パーティーなのである。材料一式持ち込んできた或るバー・テンダーが、カクテルの腕を振っていた。懇意な人たちだけの集まりなので、遠慮なく飲むことが出来た。応接室の方では、中央の大卓を片寄せて、レコードでダンスをやってる若い人たちもいた。日本室の広間には、日本酒も出ていた。
薄雲もなく晴れ上った日で、縁側の硝子戸には明るい斜陽が射していた。だが、庭の芝生は霜枯れ、その向うの植込みには、常緑樹の葉が黒々と静まり返っていた。
長い縁側をちょっと折れ曲った広縁の片隅の、毛氈を敷いて小卓に籐椅子が据えてあるところで、志村は、今井房代夫人につかまってしまった。
彼女は太田夫人となにか話し
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