は開けてゆくのである。それもただ一つ、某氏へ身体を提供したからのことであり、ただそれだけのことである。彼女はそれを決行した。そして今でもなお木村を愛してると思っており、今後も愛し続けるだろうと思っている。そのために、交渉がとぎれがちになってる木村に、わざわざ別れを告げに来たのである。来てみると、涙のなかの甘い抱擁、それ以上彼女が求めるものは何があったであろうか。彼女は満足なのである。満足だからして、しみじみと涙ぐんでいるのである。
木村の机の上にある粗末な電気スタンドからの光りは、彼女が幾度か夜更けに身に浴びたものだった。だから今、この夕方の薄暗がりに、その電灯をともすことは躊躇されるのである。机の前のメリンスの坐布団の牡丹の柄《がら》は、彼女が一緒に見立てたものだった。その色褪せた花模様を、彼女は夢み心地に見やるのである。本箱の抽出にさわってみると、鍵がかってあるけれど、そこには、彼女の幾通もの手紙がしまってあることを、彼女もよく知っている。その中の二、三の文句は、今も彼女の頭に残っていて、更に修飾されて蘇ってくるのである。――それらのものすべてが、満足な状態にある彼女を、しみじみ
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