。そして永久に、未練とか口惜しさとかいうようなものが、後に残らないように致したいものでございます。」
その声が、木村の眼界を塞ぐのである。それがたとえ、真実のものであろうとも、或は偽装のものであろうとも、その中には甘い蜜を含んでいる。そういう蜜をなめる場合には、彼が園の中の、蝦蟇も亀も蝦も蟹も、その他のものが凡て、生気を失ってしまうのである。
――木村は、今ではもう、何の欲望も残らず、身体は空っぽとも云えるほどに澄み返り、明晰な眼を見開きたいような生理的状態にあったのである。
秋子は木村の室に坐りつづけている。見るものすべてが、涙の種である。いや、すべてが涙の種となるような感傷の谷間におちこんでいるのである。ヒステリーも起さず、はしたない振舞もせず、しみじみとした感傷の谷間におちこんでることは、一方では彼女の満足な状態を示すものであろうか。実際彼女は、一方では、満足な状態にあった。長いあいだ子宮水腫になやみながら世帯の仕事になやんでいた母親をも、これから手厚くいたわってやろう。出来るならば手術もさせてやろう。女中もおこう。妹には何を習わせることにしようか。次から次へと彼女の空想
前へ
次へ
全15ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング