――。
甚しい酩酊者は、全く意識がなくなることがあります。或る情景までははっきり自覚しているが、そこで一線を劃して、それから先は全然の空虚となります。而もその空虚な時間のあいだ、普通の行動をして、大して取乱すこともない……らしいのです。「らしい」というのは、他人の云うところであって、酩酊者自身にとっては、無自覚な機械的な動きがあるのみで、そういう人造人間的な動きは、あってもないに等しいのです。
かかる空虚は、単に記憶の喪失から来るのでしょうか。否、彼自身にとっては、それは別個の問題なのです。
酩酊者は、截断された強烈な世界に生きています。そこでは、時間と空間とがたち切られて、事象のなまなましい断面だけが拡大されます。この拡大された断面にあっては、あらゆる価値の転換も可能であり、あらゆる重力の顛倒も可能であります。一切の関係が打切られて、物体の独自な存在だけが強調されます。酩酊者自身も既に、見る者ではなくなり、見らるる者となります。見らるる者が自意識を回復せんがために、見る者の地位に復帰しようとする試みのうちに、あらゆる飛躍がなされます。この飛躍は、時あって、世界全体をひっくり返す
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