練とか口惜しさとかも、もうさっぱりとなくなるだろう。それでよいのだ。だが、彼はその辺を、薄暗がりのなかに探しまわる。もしや、彼女が傷ついて、その血が、血の一滴でも、こぼれていはしないだろうか。血の一滴をも見出し得なかった彼に、そのためか、夕闇の冷気と憂愁とが、しめやかに忍び寄ってくる……。

 木村はまだ室に戻りたくなく、蝦蟇や亀や蟹などのそのおかしな園の、雑草のなかの石の上に、じっと腰をおろしている。夕闇が次第に濃くなってくる。だが、眼界は開けた思いである。
 その淋しい眼界の遠い地平に、一人の小さな子供が、しきりに小さな鶴嘴を打振っている。おもちゃの鶴嘴なのであろうか。遊んでいるのであろうか。いや、地面を耕しているのらしい。だが、その辺は砂地なのである。一粒の麦も、一粒の米も、恐らく出来はしないであろう。
 早く、馳けつけてやろうよ。子供は喉が渇いているようだ。疲れているようだ。――音のない声がして、木村はその声に促がされ、馳けだしてゆく。
 見ると、子供は坐っているのである。片手に白いお箸を持ち、片手に小さなお茶碗を持っている。
 それが、このうちの坊やである。――つい近頃、腸を病んで、長い間ねていて、殆んど絶食同様の療法をしていた。そして漸く、おまじりを少量許された時、その喜びはどんなだろう。子供の病気は何よりも不自然であり、子供の節食は何よりもいたいたしい。重湯に御飯粒がいくつか浮いてるのを、持ってこられると、彼はいきなり起きあがって、寝床の上に行儀よく坐った。そしてその小さなお茶碗とお箸とを取り、重湯を一口すっては御飯粒を一つ一つ拾いあげて食べた。丁度そこに居合せた木村は、それを見ているうちに、瞼の中が熱くなり、それを意識すると、激しく涙が出てきた。小さな子供の、なんという清い食欲、生の営みであることか。木村は涙を流した。
 その、うちの坊やの姿なのである。だが、見ようによっては、遠い地平に、一人の子供が、やはり砂地に鶴嘴をうちこんでいる。一粒の麦か米かを培うつもりなのであろうか、それとも、ただ遊んでいるのであろうか。
 瞬《まばた》きをすると、子供の姿は消え、園の中はもう薄暗くて、見通しがきかないのであった。

 木村は云う――。
 私はこの雑草と石と水と怪しい生物との庭が好きです。好きだから黙っていたのです。
 第一人に話したら笑われるでしょう。然し
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