とした感傷の谷間にひきずりこむのである。
 ただ彼女に不満なのは、木村の心がはっきり捉え難いことだった。自分に対する木村の心のつながりを、どこに求めたらよいのであろうか。
 彼女は立上って、しとやかに、カフェーの女給としてはいとも神妙に、涙ぐみながら、木村がいる筈の庭の方へ出て行ってみる……。

 庭のなかの夕闇は、木村と秋子とを捉える筈だった。木村もその晩は隙だし、秋子もその晩は店を休んでいた。どこかへ……とそう暗示した言葉のあとで、取りつくしまもない沈黙がおちてきて、その沈黙のなかで突然、大きな手が秋子の髪を掴んだ。
 それが、木村の手なのである。これは、秋子にとっては思いもかけなかったことであり、木村にとっても意外なことである。秋子はただ、甘ったるい涙のうちに、木村に媚びていたのである。木村はただ、それを受け容るればよかったのである。蝦蟇や亀と半日でもにらめっこしてる木村のことだから、それが当然だったのである。それを、どうしたことであろうか。
 木村の掌の中で、秋子の髪の毛は、はじめ無数の生物のように抵抗し、やがて、ぞっとするような冷酷さになってしまう。木村はそれを握りしめて、彼女をそこに引き据え、引きずり倒すのであるが、彼女は少しも逆らわず、為されるままになっている。着物の裾の乱れも気にせず、上体をくねらして、襟元だけをきっとかき合せている。
 彼女のその姿態と無言とに、木村の反感は更に煽らるるのである。なぜ声を立てたり泣いたりしないのであろうか。蝦蟇にしても、人の手に捉えられる時には、くくくくと鳴声を立てるではないか。
 彼女の髪を掴んでそこに引き据えた、そのとっさの意外な行為のうちに、木村は一種の夢をみる。宛も飛行機の空中戦を遠望するような光景である。彼自身が大きな機体となって、上空にまいあがってゆく。周囲から、多くの小さな機体が群がり迫ってくる。それを一つ一つ、彼は手先で払い落す。それがみな、女性の盲目な肉体なのであろうか。上空の高さは限りがなく、如何にまいあがっても、まだ足りない。小さな機体等が群がり迫ってきて、いつまでも果しがないのである。
 その夢幻からさめて、彼が惘然としていると、秋子はもうそこに居ず、雑草の踏みしだかれた跡だけが残っている。それでよいのだ、と彼は自ら云う。あたしは待っておりましたなどと甘える、妖しい声ももうしなくなるだろう。未
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