ばしば、あまりにしばしば、あなたを訪れて来て、ただあなたの側にいるのを楽しみにしていました。その高木君を、あなたはやさしく、あまりにやさしく、もてなしました。そしてあなたたちは、和歌のことを話し、芝居のことを話し、花のことを語り、小鳥を眺めました。それを私は悪いとは言いませんよ。早春の候で、もう梅の花は咲きそろい、桃の蕾はふくらんでいますからね。それから庭には、椎の古木があって、その梢近くの空洞には、雀が巣をつくり、雌雄仲よく嘴をつっつきあっては愛を語っていますから、自然とその方へ眼も向くでしょうよ。それらの雀を眺めて、あなたはうっとりと微笑み、高木君は溜息をつきましたね。
 あなたは十五年も年上の良人に長年仕えてきて、そして今では未亡人で、もう更年期にも近づいてるのに、独りで置くには惜しいと噂されるほどの容姿です。高木君は顔立もみなりも整ってるおとなしい人柄で、あなたより十年あまり若い独身者です。だから、あなたが高木君を弟のようにまたは子供のように可愛がろうと、一向に不思議ではなく、高木君があなたを姉のようにまたは母親のように慕おうと、一向に不思議ではなく、それはまあちょっとしたロマンチックな感情で、熱烈な恋愛にまで高まるものではありますまい。
 ところで、あの晩、金庫には紙幣がつみ重なり、あなたは厚生参与官の遠景のもとに婦人代議士となり、自宅の風呂にはいり、ウイスキーに酔って……そして事情がだいぶ変ってきました。高木君はあなたの立候補が不満で、ついで不安になり、なにか遠く後方へ放り出されたような心地で、見えはしませんでしたが、涙を眼の奥ににじませていました。それを、あなたは貪るように楽しみましたね。
「わたし、あなたをほんとに頼りにしてるのよ。」
 そんなことを、謂わば餌食に向って言う人がありますか。あなたはちょっと煙草をふかしてみたり、静に微笑んだりして、高木君の淋しさというか、それを貪り味ったものです。あまり楽しんでいると、肩も少しは凝りましょうよ。あなたは肩をちょっと叩きました。
「なんだか、血圧が少し高いらしいのよ。でも、死ぬなら、脳溢血なんかがいいわね。長く苦しまなくて、一思いに死ねるんだから……。」
 丹前を肩からずり落し、襟元をくつろげ、手を差し入れて、肩をなでましたね。
「ごらんなさい、こんなよ。」
 血圧が高いと肩が凝るものかどうか、その説明の代りに、あなたは高木君の方へ炬燵半分ほど体をずらせ、その手を執って、懐から肩へと持ちこんでしまいました。高木君もだいぶ酔ってはいましたが、全く切なそうな顔付で、そして息をこらし、ぼってりしたあなたの胸から肩へ掌を押しあてながら、とうとう炬燵布団の上に顔を押しあててしまいました。それから、静に手を引きましたよ。
「薄情ね、少し揉んでよ。」
 高木君は眼をつぶって、あなたの肩の肌を揉むまねをしましたが、やがてまた手を引っこめましたよ。
 あなたの肩は殆んど凝っていませんでした。だが、あなたの体は汗ばんでいましたね。
 ……炬燵が熱かった……。
 ばかな口実を設けてはいけません。あなたの身内がほてっていたからでしょう。それはとにかく、あなたは拙劣でしたよ。ただじっと相手の手を握りしめるなり、或はいきなり相手の首にかじりつくなり、やり方はいくらもあったでしょう。それを、血圧が高そうだとか、肩が凝るようだとか言って、相手の手を懐に引き入れるなんて、ばかばかしいことをしたものですね。
 あなたは雀の恋愛をじっと眺めました。さかりのついた猫の鳴き声に耳を傾けました。それならば更に、庭の隅のあの古池でも覗きこむと宜しかったでしょう。あすこでは今頃、蛙どもが必死の恋愛をやってる筈です。蛙といっても、蟇蛙ですよ。あれは面白い奴で、冬の間、土にもぐって冬眠していますが、早春の陽気に眼をさますと、のこのこ地中からはい出してきて、池にはいります。そして充分に食物もとらないうちに、早くも、雌雄一団となって、性行為に耽溺します。互にしがみつき絡まりあって、時折は水面に顔を出してはっと息をつきながら、または水中からかすかな気泡を吐きながら、その僅かな然し根強い生命力を性行為に集中します。しまいには精根つきて、仰向けに大きな腹を水面すれすれに、ぶくっと浮いてるのもあります。そんなところを、あなたは見たことがありますか。脂っこい物を腹につめこみ、酒に酔い、そして拙劣な芝居を試みる、そんな下らないことを彼等はしません。
 こんなことを私が言うのも、蛙の方があなたよりは、純粋で真摯だと思うからに外なりません。
 ――わたしは人間ですもの。
 それは勿論、あなたは人間ですよ。だけど、その人間が、素知らぬ顔をして、相手の掌を肌に押しあてたまま、うっとりと上気し、額の髪の生え際に汗の玉を浮かべ……いや髪の生え際
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