ばかりではなく、全身の毛穴に汗ばんでいたではありませんか。
高木君はなにか怖じ恐れて、顔を伏せ、手を引っこめましたよ。これが人間的な恋愛だったら、つまり、性慾ばかりでなくて愛情だったら、高木君は全身を投げ出したかも知れませんよ。
そもそも、あなたが未亡人だったことがいけないのです。昂揚された恋愛というものは、男の方は別として、女の方は、令嬢でも構わず、人妻でも構わず、娼婦でも構わず、機縁さえあれば成立するものですが、未亡人ではなかなか困難ですよ。未亡人というものはたいてい、何か濁ったもの、淀んだもの、いやらしいものを、身につけています。つまりすっきりしていないんですね。すっきりした未亡人、これは特別なもので、謂わば珍宝で、めったにあるものではありません。あなたがその珍宝の一人だと自惚れてはいけませんよ。あなたは普通にありふれた未亡人の一人に過ぎませんよ。あなたの髪の毛はまだ黒々として美しく、肩はやさしい弧線を描き、瞳は澄んで輝き、唇はかるく濡いを帯び、全身の肉附は柔かく厚く……まあそういったことは事実でありますが、然し、あなたはやはり普通の未亡人で、どこかの隅っこに垢がたまっており、どこかの隅っこに臭気がこびりついており、どこかに空虚な隙間があり、どこかに歪んだものがあり、それが単に肉体的なばかりでなく、精神的にもそうなんです。つまり、真にすっきりとはしていないんですよ。
――未亡人というものには、人知れぬ苦労があります。
それは苦労はありましょうよ。だけど、いったい苦労のない者が世の中にありますか。未亡人というものは、わざわざ余計な苦労を作りだして、自らそれを楽しんでるところさえありますね。性慾のことを言うのではありませんよ。世間に対抗して意地を張るからです。もっとおとなしい気持ちでおればよろしいんですがね。
あなたもずいぶん意地を張りました。その意地が、こんど、代議士とか参与官とかいう空想で、すーっと貫きぬける見通しがついたものだから、つまり前途が開けて障碍がなくなったものだから、あなたはすっかりいい気になって、ちょっと高木君をもてあそんでみたのでしょう。だが、なんというけちな遊戯だったことでしょう。もっと大胆に、或は純粋に、せめて池の蛙ぐらいになったら如何でしたか。
それにしても、高木君は気の毒でしたよ。あなたの大きな乳房の上の方、鎖骨のあたりや肩のあたりの、脂肪の多い肌にじかに触れ、あなたの髪の香をかぎ、あなたの息を頬に受け、あなたの膝に肱をつき、そしてすっかり萎縮してしまいました。普通なら、それぐらいのことは何でもないんですが、底にロマンチックな憧れがあるものだから、そしてあなたが全身の毛穴を汗ばましてるものだから、打拉がれた気持ちになるのも無理はありません。思いがけない局面になったのです。その局面のなかで、一個の未亡人にぶっつかったのです。彼は慴え縮こまって、黙ってウイスキーを飲みましたね。そして彼が殆んど口を利かなかったのは、あなたにとって仕合せなわけでした。もしも彼が下らないことを饒舌りだしたり、勝手な真似をしたりしたら、あなたはゆっくり玩具を楽しむことが出来なかったでしょうからね。
あなたの方はもうそれで充分だったでしょうけれど、高木君は可哀そうに、心の置きどころが分らなくなって、ぐずぐずしてるうちに時間を過ごし、泊ってゆくようなことになってしまいました。しかも、あなたからはもう一顧も与えられず、そして散文的な情景が展開されたのですよ。
信昭が、友人が帰ってからそこへ顔を出すと、また酒の興がまし、あなたもだいぶ飲みましたね。そして書生や女中まで呼び出して、宣言しました。
「わたしは、とうとうお断りしかねて、衆議院議員の選挙に立候補することになりました。それで、これから当分の間、人の出入も今迄より多くなるでしょうし、ご用もふえることでしょうよ。けれど、家の中のことは、手をはぶかずに、きちっとやっていって下さいよ。家庭の秩序と言いますか、それだけはいつも保ってゆかなければなりませんからね。」
書生と女中はお辞儀をするように頷きましたね。まったく、家庭の秩序とは、大出来でしたよ。
然しそのようなことには、信昭君なんかは無関心のようでした。若い科学者たる彼は、あなたの立候補を揶揄的な眼でしか見ていませんでしたよ。
「それもまあ、お母さんの道楽としてはいいかも知れませんね。この頃、あまり面白いことがありませんから……。」
あなたは大袈裟に怒ったような様子をしましたね。
「また、なにを言うんですか。あなたはいつも政治を軽蔑しますが、現に、政治の中に生きていない人が一人だってあるでしょうか。」
「僕は政治の外に生きたいですね。現在のような政治ならですよ。」
そしてあなたたちは、政治の中に生きるとか、
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