政治の外に生きるとか、そんなことを論じあいましたね。それも親子の愛情を持って、冗談まじりに、そして信昭君の方からいい加減に調子を合せて、謂わば酒の肴にしたのでしょうか。
そして沈黙の合間に、あなたは、冷たい微風に似た寂寥を感じましたね。この点については、私はあなたを尊敬しますよ。
守山未亡人千賀子さん
翌朝[#「翌朝」は底本では「習朝」]、あなたは珍らしく寝坊しましたね。前夜、ウイスキーの酔いが頭にのぼり、またいろいろな雑念が頭にのぼって、なかなか眠れなかった故でしょう。
あなたが起きた時にはもう、信昭君も高木君も出かけていました。そのことを、あなたはちょっと意外に思ったようですが、すぐにその気持ちも忘れてしまいましたね。そしていつもより入念にお化粧をしましたね。それから、立候補のための資格審査の申請に署名をし、秋山さんのところと、党の本部とに、立候補を承諾する電話をかけました。党の本部からは、改めて然るべき人が連絡に来るということで、それで見ても、あなたの社会的地位が相当なものだということが分りますね。
ところが、そこでちょっとあなたは迷いましたね。なにか大きな不安が襲ってきて、じっと落着いてることが出来ず、何かをしなければならないが何をしてよいか分らず、当惑しましたね。相当な社会的地位にあるあなたがいよいよ立候補の決心をしたとなると、いろいろ処理すべきことも多い筈でしたが、さて、何をどう処理すべきか分りませんでしたね。あいにく訪問客もなく、さし当って訪問すべき人も見出せず、さりとて、猫を相手に炬燵にあたったり日向ぼっこをしたりするのも、もう出来ないことでした。活動しなければならない身ですからね。
そして、ためらい惑ったあげく、まず墓詣りをしようとあなたは思いつきましたね。これには私も意外でしたよ。然しこの墓参は、ほかに行くところもないし、さりとて何処かへ行かなければならないから、という程度のものであると共に、また、一度思いつけばそれが気持にぴったりときて、あなたの言葉をかりれば、家庭の秩序の一環をなすものでさえありました。
思いつくと同時にあなたはそれにきめて、それからこれは異例なことですが、女中をお伴に連れてゆくことにしましたね。どうしてそんな気になったのか。あなた自身にもよく分らなかったことでしょう。まあ婦人代議士という気分のせいだったでしょうかね。そこで、書生に留守中の注意を与え、離屋に住んでる親戚の一家にも留守を頼んで、あなたは女中を従えて出かけました。
その出しなに、ちょっと邪魔が起りましたね。小川夫人が訪れて来ました。あなたは彼女を奥の室へではなく、応接室に通して、いろいろな表情をしましたよ。
「まあお珍らしい。よくいらして下さいましたわね。しばらくお目にかかりませんので、どうしていらっしゃるかと、こちらからお伺いしようと思っていたところでございますよ。ところが、あいにく、いろいろ忙しかったものですから……。丁度、出かけようとしていますところで……どう致しましょう……急な用事がございましてね……。」
あなたは嘘を言ってるのではありませんでした。墓参にきめると、それがもうあなたにとっては、さし迫った急用となっていたんですからね。
小川夫人はちょっと顔を曇らせましたが、すぐに、媚びるような笑みを浮べて、また出なおして来ると言いました。そして、大した用件ではなく、先達てお頼みしておいたことについて伺ったのだと明かしました。そこで初めて、あなたは思い出しましたね。小川夫人の従弟にあたる一家が、今年はじめ大連から引きあげてきたのだが、思わしい就職口もなくて困っているので、どこかにお世話願えまいかと、そういう話だったでしょう。それをあなたは、うっかり忘れてしまっていたのです。
「あのことでございますか。分りましたわ。今すこしお待ち下さいません。よい御返事をさしあげたいと、いろいろ聞き合せてるところでございますよ。出来るだけお力添え致しますわ。」
小川夫人が感謝し且つ依頼して、辞し去ったあと、あなたは眉根を寄せて、煙草を一本ふかしましたね。それから眉根を開いて、これはどこかへ世話してやらなければなるまいと考えましたね。それが当然のことではありませんか。
その考えのため、あなたは一層はればれとした心地で、女中を従えて、墓地へ向いましたでしょう。
よく晴れた日でしたね。早春の冷気も、なにか真綿にでもくるまれたように柔かでした。省線電車もさほど込んではいず、武蔵境の乗換駅でもあまり待たずにすみました。小さな女の児に、あなたは微笑みかけて、ちょっと言葉をかけましたね。
多磨墓地の入口の茶屋で一休みして、それから墓に詣りました。多磨墓地は謂わば公園作りで、少しも陰気ではなく、あちこちに松の木が亭々とそびえ
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