。皆さんがしきりにお勧めなさいますけれど……。」
 そのような外交的な言葉を、大塚老夫人は無視してかかりましたね。
「わが党の勝利は眼に見えているそうですよ。」そして大塚夫人は声を低めました。「厚生省など婦人の意見がもっとも必要だそうですから、その参与官にあなたが当てられているとか聞きましたよ。」
「まあ、おからかいなすってはいやでございますわ。」
 あなたは拗ねたような身振りをし、そこへ他の人々がやって来たので、話はそれきりに終りました。けれど、その時、あなたの決心は本当にはっきり定まったのではありませんか。当選はたいてい間違いないとして、その前途に厚生参与官、それだけの夢が、あなたの立候補を決定せしめたのです。夢……と私は言いましたが、或は実現されることかも知れません。それにしても、厚生参与官という言葉は、あなたにとっては、何等の内容もない架空のもので、またそれだけに一層光栄あるものと見えたでしょう。
 いつぞや、あなたは或る婦人会で、ちょっとしたお饒舌りをしましたね。
「今やわたくしどもにも、男子と同様に、参政権が与えられました。そしてこの婦人に与えられました権利を本当に生かしまするには、まず第一に、わたくしども婦人の生活の仕方、生き方を、改革しなければなりません。その第一歩としましては、これまでわたくしどもを身動き出来ないまでに縛りつけていました台所の仕事から、わたくしども自身を解放しなければなりません。身を解放して、そして更に、台所の仕事を主宰するようにならなければなりません……。」
 そういう主旨の話は、皆さんから大喝采を受けましたね。そしてあなたは得意でしたね。ところが、あなた自身、台所の仕事などはあまりしたことがないんですからね。そして、台所の仕事から解放されてそれを逆に主宰するとは、いったいどういうことであるか、言ってるあなた自身にも聞いてる皆さんにも、さっぱり分りはしなかったんですよ。ただなにかぼーっと空想的な微光がさしてるに過ぎませんでした。厚生参与官と全く同じことですよ。然し、そんなものがあなたの運命を決定する機縁になるのだから、ばかには出来ませんね。
 あなたは自宅に電話をかけて、御馳走になって汗ばんだからお風呂を沸かしておくようにと、女中に言いつけました。が実は、大して御馳走にもならず、汗ばんでもいませんでしたよ。けれど、なにか事があると、つまり気持ちに変化があると、風呂を沸かさせるあなたの癖は、ちょっと面白いですね。あなたのところのは五右衛門風呂で、何でも焚けるから便利ではありますが、燃料不足の折柄、ふだんは銭湯に行き、事ある毎に自宅のを沸かさせる、そこが面白いですね。
 あなたはその晩、自宅の風呂にのんびりと入浴しました。そして、信昭君のところへ友人が来て、ウイスキーを出すついでに、あなたの方も高木君を相手にウイスキーを飲んで……そしてこんどは、ほんとに汗ばみましたね。私はいささか呆れましたよ。

 守山未亡人千賀子さん
 あなたは丹前をひっかけて炬燵にあたりながら、ピーナツをかじりウイスキーをなめました。そして湯上りの薄化粧の頬を少しく上気さして、高木君をじっと見つめましたね。
「高木さん、わたしのために、これから、ほんとに勉強して下さいませんか。」
 高木君はびっくりして、返事につまったようでした。誰だって、だしぬけにそんなことを言われたら戸惑うでしょうよ。
「ほんとに勉強して下さるわね。」
 あなたは畳みかけてそう言って、やさしい眼付を見据えたままでした。その眼付に縋りつくようにして、高木君は漸く言いました。
「なんでも奥さんの仰言る通りにしますよ。」
「それが、特別の勉強なのよ。」
 あなたはにっこり笑って、それから暫く持って廻った後に、こんど代議士の選挙に立候補しなければならなくなるかも知れないと、打ち明けましたね。然し、それと高木君の勉強と何の関係があるかは、なかなか説明しませんでしたし、それは遂に通り越されてしまいました。伯父さんたち一門でやってる出版事業に謂わば片足つきこんでる高木君は、あなたにとっては一種のインテリに違いなく、彼の特別の勉強は、代議士とか参与官とかにずいぶん役立つわけでしょう。つまり、あなたは自分で勉強する代りに、高木君に勉強させればよいわけです。そういうことは、日本の政治家には珍らしくないことですからね。然しそれが、悲しいかな高木君には分りませんでしたよ。そして高木君はただあなたの立候補に不満の意を洩らしましたね。然しなぜ不満なのか、悲しいかなあなたには分りませんでした。この二つの喰い違いは、ちょっと興味のある問題ですよ。
 ――そう言えば、愛情もそうでしょうか。
 おう、本当の愛情など、あなたはいったい高木君に対して持ったことがありましょうか。
 高木君はし
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング