うかね。そこで、書生に留守中の注意を与え、離屋に住んでる親戚の一家にも留守を頼んで、あなたは女中を従えて出かけました。
その出しなに、ちょっと邪魔が起りましたね。小川夫人が訪れて来ました。あなたは彼女を奥の室へではなく、応接室に通して、いろいろな表情をしましたよ。
「まあお珍らしい。よくいらして下さいましたわね。しばらくお目にかかりませんので、どうしていらっしゃるかと、こちらからお伺いしようと思っていたところでございますよ。ところが、あいにく、いろいろ忙しかったものですから……。丁度、出かけようとしていますところで……どう致しましょう……急な用事がございましてね……。」
あなたは嘘を言ってるのではありませんでした。墓参にきめると、それがもうあなたにとっては、さし迫った急用となっていたんですからね。
小川夫人はちょっと顔を曇らせましたが、すぐに、媚びるような笑みを浮べて、また出なおして来ると言いました。そして、大した用件ではなく、先達てお頼みしておいたことについて伺ったのだと明かしました。そこで初めて、あなたは思い出しましたね。小川夫人の従弟にあたる一家が、今年はじめ大連から引きあげてきたのだが、思わしい就職口もなくて困っているので、どこかにお世話願えまいかと、そういう話だったでしょう。それをあなたは、うっかり忘れてしまっていたのです。
「あのことでございますか。分りましたわ。今すこしお待ち下さいません。よい御返事をさしあげたいと、いろいろ聞き合せてるところでございますよ。出来るだけお力添え致しますわ。」
小川夫人が感謝し且つ依頼して、辞し去ったあと、あなたは眉根を寄せて、煙草を一本ふかしましたね。それから眉根を開いて、これはどこかへ世話してやらなければなるまいと考えましたね。それが当然のことではありませんか。
その考えのため、あなたは一層はればれとした心地で、女中を従えて、墓地へ向いましたでしょう。
よく晴れた日でしたね。早春の冷気も、なにか真綿にでもくるまれたように柔かでした。省線電車もさほど込んではいず、武蔵境の乗換駅でもあまり待たずにすみました。小さな女の児に、あなたは微笑みかけて、ちょっと言葉をかけましたね。
多磨墓地の入口の茶屋で一休みして、それから墓に詣りました。多磨墓地は謂わば公園作りで、少しも陰気ではなく、あちこちに松の木が亭々とそびえ
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