「だって、お臍の上に味噌じゃあ……。」
 照次がくくと笑い出したのが初りで、照代も僕も一緒に笑い出した。おっかさんだけは真顔を崩さなかった。その光景を、いつのまにかうっとり眼を開いて、美代子がぼんやり眺めていた。
 照代はもう箪笥から、着物だの帯だのをやたらに取出していた。
「一寸……届けといたの。」とおっかさんが尋ねた。
「ええ。」
「あたし、留守してるわ。」と美代子が云った。
「ええ。おみやげを持ってきてあげるわ。」
 そして、僕は照代とそこを出た。
 タクシーの中で、照代はこんなことを云った。
「昨夜夜通しお酒の相手をして、それで冷えたのよ。寝てりゃじきになおるわ。あの通り元気ですもの。先刻だって髪をあげるって起き上ったくらいだから。そして、これで寝ついたら、ねえさん、あたしまた借金がふえるわって、そう云うのよ。可哀そうね。」
「うむ。」
 僕は気乗りのしない返事をした。ちらちらと見える街路の灯が美しかった。
 僕達は浅草に行って、何か食べて、活動か芝居を見るつもりだった。
「どこにしましょう。」
「どこでもいいや。君の行くところに黙ってついていくよ。」
「そうね、今日はあたしの云う通りよ。」
 そんな風で、タクシーは千束町の四辻で止まった。そして僕達は、きゃしゃな二階家の並んでる狭い石畳の路次をはいっていった。遠くのそんな家を照代が識ってるのが、僕には意外だった。

 敏子
 これから先は、僕も少し話しかねる。またよく覚えてもいない。で、簡単に云えば、僕達はそこの二階で、料理を取寄せて酒を飲んだ。僕も彼女も酔っていった。そしてはしゃぎ出して、それがいつのまにか、彼女の悪口になった。美代子が病気で苦しんでるのに、外に出て酒を飲むなんて怪しからん、と僕は彼女をなじり初めた。全く不人情な奴だ、と彼女も彼女自身を罵った……半分本気に。そして二人で何やかやと、彼女の悪口を云った。そうしたことが、僕にも彼女にも快かったらしい。悪口の対象はもう彼女ではなかった。誰でもよかったのだ。そして、その後でふっと淋しくなって、黙りこんで、他の室に移った。許してくれ……とこう云うのは、お前に向ってじゃない。いや、誰に向ってでもないんだ。
 その家から出たのは十一時頃だった。途中で小間物店に寄って、おみやげを買った。おっかさんや照次や彼女自身のものは、みなしるしばかりの一寸した品だったが、美代子にだけはちゃんとした物を揃えた。彼女は美代子の半襟や鹿子の柄の見立に熱心だった。
 彼女が送ってきてくれというのを、僕は頑として断った。
「あなたは、ほんとにやんちゃね。」
「ああ、やんちゃだよ。」
 そして僕達は距てのない微笑を交わした。
 彼女はおみやげと幾許かの金を持って、タクシーで帰っていった。
 吾妻橋のほとりは寒かった。風はなかったが、それでも寒い空気が川の方から流れよってきた。
 何という清楚な感じだ。これじゃ駄目だ。もっともっともぐってやれ。
 僕は北の方の一廓に向った。殆んど不案内な土地だったけれど、電車でいって後は歩いた。そして、奥の方の小路を、小店を小店をと物色して廻った。
「へえ、旦那、如何で……もう十二時近くですから、半夜のところで、御都合でどうにも……へえ、二両半、他には一切頂きません。」
「そいつあ有難い、今夜は観音堂の縁の下で寝るのかと思った。」
「へへへ、御冗談……。」
 僕はふらふらと梯子段を上っていった。そしてその晩は、北に窓が一つあるきりの何にもない長方形の室で、一人で眠った。
「君はいいからどっかへ行ってこい。ただ、風邪をひかないように布団だけは沢山頼むぜ。」
 山出しの女中と云った恰好の女は、布団を余計に一枚持ってきて着せてくれた。
 財産がなくなって、自分の腕で稼がなければならなくなっても、俺は力強く働いて見せる、とそんなことを、僕は懐中無一文の気で考えていた。
 そして翌朝九時頃までぐっすり寝込んで、それからそこを飛出して、稲毛へ行った。
 照代のことで、僕の懐中は実際淋しくなっていた。翌日のことが心細かった。で、午飯をぬきにして、晩に酒を一本だけつけて貰った。
 そこの旅館の、丘の松林の中にある離屋を、お前はよく知ってるね。季節外れのこと故、静かすぎるほどだった。その一室で、僕は時々遠く海に眼をやるきりで、死んだ者のようになって半日を過した。風呂にはいって頭まですっかり洗い清めて、善良な女中を相手に淋しい夕食をして、あたりに客もないひっそりした離屋の、朱塗りの餉台の[#「餉台の」は底本では「飴台の」]上に両肱をついて、僕はぼんやり昨日からのことを、前々からのことを、思い起していた。そして、うっかりすると照代と一緒に来る筈だったことを考えて、淋しい微笑が頬に上った。
 羽の長い蚊が一匹、十一月の末というのにま
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