だ生き残って、餉台のふちを力無く這いまわっていた。そいつがひょいと飛び上っておいて、僕の鼻の先にとまった。
 僕は一寸苦笑したが、それから変に可笑しくなった。

 敏子
 こう話してくると、お前にも大体は分るだろう。僕はいくら自分の心にちゃんと聞いてみても、惨めだとか汚らわしいとか自責の念とか、そういったものを少しも感じなかったのだ。それも普通の道徳的な外面的の意味でじゃない。心の直接の裁きに於てなんだ。そのくせ、お前も知ってる通り、僕は本質的な道楽者でもない。
 こいつあおかしい、俺の本体は何だ、とそう僕は独語したもんだ。そしてぼんやり考えた、何もかもみな相対的なんだ、事実そのものも、人の心も、感情も思想も、人事はみな相対的なんだ。絶対的なものなんか何もありゃあしない……とね。だから、拘泥しちゃいけない、即《つ》きすぎちゃあいけない……。
 幼稚だね。だが分るかい。いやよく分るまい。僕自身にだってよくは分らないんだからね。
 珍らしく早めに起き上って、縁側の日向にぼんやりしていると、松の影が薄すらと匐ってる庭に、大きな濃い影がぱっぱっと飛んだ。おや、と思って眼を挙げると、鳩が二三羽松の梢に戯れていた。
 冷やかではあるがしみじみとした朝日の光だった。丘の裾から遠く霞んでる沖合まで、海は湖水のように凪いで鈍く光っていた。処々に繋ぎとめられてる小舟が、如何にも静かだった。
 その景色を胸深く吸いこんで、僕は東京に帰って来た。
 お前は驚いたようだったね、僕が余り早く旅から帰って来たので、そして帰るとすぐに、母に金をねだり初めたので……。
 母は僕の顔ばかり見ていた。
「旅費が足りなかったんです。」と僕は云った。「だけど、お母さんのところに無けりゃいいですよ。僕が稼ぐから……。なあに働きさいすりゃあ……。それより、お腹が空いちゃった。御飯を食べさして下さい。」
 そして、飯を食いながら、母が用で立っていった間に、僕は云った。
「稲毛に連れてってやろうか。」
「だって、」とお前はちっとも乗ってこなかった、「兄さんは行って来たばかりじゃないの。」
「それがね、実は、照代って女と一緒に行くつもりだったんだ。が、どうも……。だからその代りに、お前を連れてってやろう。」
「いやよ、そんな……。」
「だけどお前は、どうせそのうちには、ちっちゃな家庭のちっちゃな花嫁として、浜地と一緒に行くようなことになるんだろう。だからその前に一度、僕が連れてってやろうか。」
 お前はみな聞かないうちに、真赤になって俯向いてしまったね。僕は微笑したよ、ずるい微笑だったかも知れないが……。
 実際、稲毛に行くことなんかは、全くでたらめの話さ。こんどの日曜日にっていうやつさ。
 だけど、これで根性は確かなつもりなんだ。食後、座敷の縁側の日向で新聞を読んでると、お前は用もないのにやって来て、庭の方を見るふりしてじっと坐っていたね。後のために何か意見でもするつもりかしら、とそう思ったものだから、僕はわざと知らん顔をしてやった。が余り長くお前が黙っているので、ふと顔を挙げると、お前は眼に一杯涙ぐんでいる。そのお前の顔の、黒い睫毛と細い鼻筋とが、如何にも淋しかった。
「何を涙ぐんでるんだい。」と僕は云った。「心配しないでもいいよ。僕はひどくコスモポリタンだけれど、心の据えどころは知ってるからね。」
 するとお前は、神経質に頭を振りながら、本当に泣き出してしまった。僕はぐっとつまった。
「いいよ、分ってるから。……そんなことじゃない。だけど……真昼間泣く奴があるものか。笑った方がいいよ。」
 それは僕の本音なんだ。泣くことなんかありゃしない。馬鹿だねえ。



底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「改造」
   1925(大正14)年12月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年10月27日作成
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